なし。いわんや天下億万の後進生に向ってこれを責むるにおいてをや。労して功なきのみならず、かえってこれを激するの禍《わざわい》なきを期すべからざるなり。
我が輩は前節において、教育改良の意見を述べ、その主とするところは、天下の公議輿論にしたがいてこれを導き、自然にその行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流《ながれ》にしたがって水を治むるが如くならしめんことを欲する者なりと記したれども、その言少しく漠然たるがゆえに、今ここに一、二の事実を証してその意を明らかにせん。元来、我が輩の眼をもって周公孔子の教を見れば、この教の働をもって人心を動かすこと、もとより少なからずといえども、その働は決して無限のものに非ずして、働の達するところに達すれば、毫《ごう》も運動をたくましゅうすること能わざるものなりと信ず。すなわちその極点は、この教を奉ずる国民の公議輿論に適すべき部分にかぎりて働を呈し、それ以上においては輿論のために制せらるるを常とす。
たとえば支那と日本の習慣の殊《こと》なるもの多し。就中《なかんずく》、周の封建の時代と我が徳川政府封建の時代と、ひとしく封建なれども、その士人《しじん》の出処《しゅっしょ》を見るに、支那にては道行われざれば去るとてその去就《きょしゅう》はなはだ容易なり。孔子は十二君に歴事したりといい、孟子が斉《せい》の宣王《せんおう》に用いられずして梁の恵王を干《おか》すも、君に仕《つか》うること容易なるものなり。遽伯玉《きょはくぎょく》の如き、「|邦有[#レ]道則仕《くにみちあらばつかえ》、|邦無[#レ]道則可[#二]巻而懐[#一レ]之《くにみちなくんばまきてこれをふところにすべし》」とて、自国を重んずるの念、はなはだ薄きに似たれども、かつて譏《そしり》を受けたることなきのみならず、かえって聖人の賛誉を得たり。これに反して日本においては士人の去就はなはだ厳《げん》なり。「忠臣二君に仕えず、貞婦両夫に見《まみ》えず」とは、ほとんど下等社会にまで通用の教にして、特別の理由あるに非ざればこの教に背《そむ》くを許さず。日支両国の気風、すなわち両国に行わるる公議輿論の、相異なるものにして、天淵《てんえん》ただならざるを見るべし。
然るにその国人のもっとも尊崇する徳教は何ものなるぞと尋ぬるに、支那人も聖人の書を読みて忠孝の教を重んじ、日本人もまた然り。ひとしく同一の徳教を奉じてその徳育を蒙る者が、人事の実際においてはまったく反対の事相《じそう》を呈す。怪しむべきに非ずや。ひっきょう、徳教の働は、その国の輿論《よろん》に妨なき限界にまで達して、それ以上に運動するを得ざるの実証なり。もしもこの限界を越ゆるときは、徳教の趣《おもむき》を変じて輿論に適合し、その意味を表裏・陰陽に解して、あたかも輿論に差支なきの姿を装い、もってその体《てい》をまっとうするの実を見るべし。蛮夷、夏《か》を乱《み》だるは聖人の憂うるところなれども、その聖人国《せいじんこく》を蛮夷に奪われたるは今の大清《たいしん》なれども、大清の人民もまた聖人の書をもって教となすべし。徳川政府も忠義の道をもって天朝に奉じて、まことに忠義なりしかども、末年にいたり公議輿論をもってその政府を倒せば、これを倒したる者もまた、まことに忠義なり。ゆえに支那にて士人の去就を自在にすれば聖人に称せられ、日本にて同様の事を行えば聖人の教に背くとて、これを咎《とが》むべし。
蛮夷が中華を乱だるも、聖人の道をもってこれを防ぐべし。すでにこれを乱だりてこれを押領《おうりょう》したるうえは、また、聖人の道をもってこれを守るべし。敵のためにも可なり、味方のためにも可なり。その働くべき部分の内にありて自由に働をたくましゅうし、輿論にあえばすなわち装《よそおい》を変ずべし。これすなわち聖教の聖教たるゆえんにして、尋常一様、小儒輩《しょうじゅはい》の得て知るところに非ざるなり。(孟子に放伐論ありなどとて、その書を忌《い》むが如きも小儒の考にして、笑うに堪えたるものなり。数百年間、日本人が孟子を読みて、これがために不臣の念を起したるものあるを聞かず。書中の一字一句、もって人心を左右するにたるものなりとすれば、君臣の義理固き我が国において、十二君に歴事し公山仏※[#「月+(八/十)」、第4水準2−85−20]《こうさんひっきつ》の召《めし》にも応ぜんとしたる孔子の書を読むもまた不都合ならん。※[#「石+脛のつくり」、83−1]々然《こうこうぜん》たる儒論、取るに足らざるなり。)
我が日本の開国についで政府の革命以来、全国人民の気風は開進の一方に赴《おもむ》き、その進行の勢力はこれを留《とど》めて駐《とど》むべからず。すなわち公議輿論の一変したるものなれ
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