の行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流《ながれ》にしたがいて水を治むるが如くならんことを欲する者なり。
今試みに社会の表面に立つ長者にして子弟を警《いまし》め、汝は不遜なり、なにゆえに長者につかえざるや、なにゆえに尊きを尊ばざるや、近時の新説を説きて漫《みだり》に政治を談ずるが如きは、軽躁のはなはだしきものなりと咎《とが》めたらば、少年はすなわちいわん。君は前年なにゆえに廃藩の事を賛成して旧主人の落路を傍観したるや。しかのみならずその旧主人とともに社会に立ち、あるいはその上に位《くらい》して世の尊敬を受くるも、恬《てん》としてはばかる色なきはなにゆえなるや。
かつ君に質問することあり。君が維新の前後、しきりに国事に奔走して政談に熱したるは、その年齢およそ幾歳のころなりしや。この時にあたりて、世間あるいは君の軽躁を悦《よろこ》ばずして、君に忠告すること、今日、君が我々に忠告するが如き者はなかりしや。当時、君はその忠告を甘受したるか。我々ひそかに案ずるに、君は決してかかる忠告を聴く者に非ず。その忠告者をば内心に軽侮し、因循姑息《いんじゅんこそく》の頑物《がんぶつ》なりとてただ冷笑したるのみのことならん。
されば我々年少なりといえども、二十年前の君の齢《よわい》にひとし。我々の挙動、軽躁なりというも、二十年前の君に比すれば、深く譴責《けんせき》を蒙るの理《り》なし。ただし、君は旧幕府の末世《まっせ》にあたりて乱に処《しょ》し、また維新の初において創業に際したることなれば、おのずから今日の我々に異なり。我々は今日、治世にありて乱を思わず、創業の後を承けて守成《しゅせい》を謀る者なり。時勢を殊《こと》にし事態を同じゅうせずといえども、熱心の熱度は前年の君に異ならず。けだしこの熱は我々の身において独発に非ず。その実は君の余熱に感じて伝染したるものというも可なり云々と、利口に述べ立てられたらば、長者の輩も容易にこれに答うること能わずして、あるいはひそかに困却するの意味なきに非ざるべし。
その趣《おもむき》は、老成人が少年に向い、直接にその遊冶放蕩《ゆうやほうとう》を責め、かえって少年のために己《おの》が昔年の品行を摘発枚挙せられ、白頭汗を流して赤面するものに異ならず。直接の譴責は各自個々の間にてもなおかつ効を見ること少
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