ることなれば、今日|遽《にわか》に之を起して遽に高尚の門に入れんとするも、言う可くして行わる可らざるの所望なれば、我輩は今後十年二十年の短日月に多きを求めず、他年の大成は他年の人の責任に遺して今日は今日の急を謀り、兎にも角にも今の女子をして文明普通の常識を得せしめんと欲する者なり。物理生理衛生法の初歩より地理歴史等の大略を知るは固より大切なることにして、本草《ほんぞう》なども婦人には面白き嗜《たしな》みならん。殊に我輩が日本女子に限りて是非とも其智識を開発せんと欲する所は、社会上の経済思想と法律思想と此《この》二者に在り。女子に経済法律とは甚だ異《い》なるが如くなれども、其思想の皆無なるこそ女子社会の無力なる原因中の一大原因なれば、何は扨置き普通の学識を得たる上は同時に経済法律の大意を知らしむること最も必要なる可し。之を形容すれば文明女子の懐剣《かいけん》と言うも可なり。
一 女性は最も優美を貴《たっと》ぶが故に、学問を勉強すればとて、男書生の如く朴訥《ぼくとつ》なる可らず、無遠慮なる可らず、不行儀なる可らず、差出がましく生意気なる可らず。人に交わるに法あり。事に当りて論ず可きは大に論じて遠慮に及ばずと雖《いえど》も、等しく議論するにも其口調に緩急《かんきゅう》文野《ぶんや》の別あれば、其辺は格別に注意す可き所なり。口頭の談論は紙上の文章の如し。等しく文を記して同一様の趣意を述ぶるにも、其文に優美高尚なるものあり、粗野過激なるものあり、直筆激論、時として有力なることなきに非ざれども、文に巧なる人が婉曲《えんきょく》に筆を舞わして却て大に読者を感動せしめて、或る場合には俗に言う真綿で首を締めるの効を奏することあり。男子の文章既に斯《かく》の如し。況《ま》して女子の談論に於てをや。仮初《かりそめ》にも過激粗暴なる可らず。其顔色を和らげ其口調を緩かにし、要は唯条理を明にして丁寧反覆、思う所を述ぶるに在るのみ。即ち女子の品位を維持するの道にして、大丈夫も之に接して遜《ゆず》る所なきを得ず。世間に所謂女学生徒などが、自から浅学|寡聞《かぶん》を忘れて、差出がましく口を開いて人に笑わるゝが如きは、我輩の取らざる所なり。
一 既に優美を貴《たっと》ぶと言えば、遊芸は自《おのず》から女子社会の専有にして、音楽は勿論、茶の湯、挿花《いけばな》、歌、誹諧、書画等の稽古は、家計の許す限り等閑にす可らず。但し今の世間に女学と言えば、専ら古き和文を学び三十一文字《みそひともじ》の歌を詠じて能事《のうじ》終《おわ》るとする者なきに非ず。古文古歌固より高尚にして妙味ある可しと雖《いえど》も、之を弄ぶは唯是れ一種の行楽事にして、直に取て以て人生居家の実際に利用す可らず。之を喩えば音楽、茶の湯、挿花の風流を台所に試みて無益なるが如し。然《し》かのみならず古文古歌の故事は往々浮華に流れて物理の思想に乏しく、言葉は優美にして其実は婬風に逸《いっ》するもの多し。例えば世の中に普通なる彼の百人一首の如き、夢中に読んで夢中に聞けばこそ年少女子の為めに無害なれども、若しも一々これを解釈して詳《つまびらか》に今日の通俗文に翻訳したらば、婬猥《いんわい》不潔、聞くに堪えざること俗間の都々一《どどいつ》に等しきものある可し。唯都々一は三味線に撥《ばち》を打付《ぶちつ》けてコリャサイなど囃立《はやした》つるが故に野鄙《やひ》に聞ゆれども、三十一文字も三味線に合してコリャサイの調子に唄えば矢張り野鄙なる可し。古歌必ずしも崇拝するに足らず。都々一も然《しか》り。長唄、清元も然り。都《すべ》て是れ坊主の読むお経の文句を聞くが如く、其意味を問わずして其声を耳にするのみ、果して其意味を解釈するも事に益することなきは実際に明《あきらか》なる所にして、例えば和文和歌を講じて頗る巧なりと称する女学史流が、却て身辺の大事を忘却して自身の病に医を択ぶの法を知らず、老人小児を看病して其方法を誤り、甚しきは手相家相九星八卦等、あられもせぬ事に苦労して禍福を祈るが如き、世間に其例少なからざるを見て知る可し。畢竟するに無学迷信の罪と言うの外なし。左れば古来世に行わるゝ和文字《やまともんじ》の事も単に之を美術の一部分として学ぶは妙なりと雖も、女子唯一の学問と認めて畢生《ひっせい》勉強するが如きは我輩の感服せざる所なり。
一 女子の徳育には相当の書籍もある可し、父母長者の物語もある可しと雖も、書籍読むよりも物語聞くよりも、更に手近くして有力なる教は父母の行状に在り。徳教は耳より入らずして目より入るとは我輩の常に唱うる所にして、之を等閑《なおざり》にす可らず。父母の品行方正にして其思想高尚なれば自《おのず》から家風の美を成し、子女の徳義は教えずとても自然に美なる可し。左れば父母たる者の身を慎しみ家を治むるは独り自
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