、とうてい飢渇の憂なく、もとより貧寒の小士族なれども、貧は士の常なりと自から信じて疑わざれば、さまで苦しくもなく、また他人に対しても、貧乏のために侮《あなど》りをこうむることとてはなき世の風俗なりしがゆえに、学問には勉強すれども、生計の一点においてはただ飄然《ひょうぜん》として日月《じつげつ》を消《しょう》する中に、政府は外国と条約を結び、貿易の道も開らけて、世間の風景、何となく文明開化の春をもよおし、洋学者の輩も人に悪《にく》まれ人に忌《い》まるるその中に、時勢やむをえざるよりして、俗世界のために器《うつわ》として用いらるるの場合となり、余が如きも、すなわちその器の一人にして、幕府に雇われ横文書翰翻訳の仕事を得たり。
 もとよりこれがために栄誉を博したるにあらず、人情一般、西洋の事物を穢《きた》なく思う世の中に、この穢なき事を吟味するは洋学者に限るとして利用せられたるその趣《おもむき》は、皮細工に限りてえたに御用をこうむりたるの情に異ならざりしといえども、えたにても非人にても、生計の道にありつきたるは実に図らざりしことにして、偶然に我が所得の芸能をもって銭《ぜに》を得たるものなり。

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