れざるをえず。すなわち一は普通の人民に日用の事を教うる場所にして、一は学者の種《たね》を育つる場所なり。銭《ぜに》あり才あるものは、もとより今の小学校にとどまるべからず。あるいは最初よりこれに入らずして、上等の学校に入るべし。すなわち地方に中学校の入用というも、このわけなり。小中大といえば、順序をへて次第に上るべきように聞《きこゆ》れども、事実、人の貧富、才・不才にしたがって、はじめより区別するか、あるいは入学の後、自然にその区別なきを得ず。世の中の大勢これをいかんともすべからざるなり。
右の如く学校の種類を二に分けて、その上等のものには、道徳の教に四書五経を用ゆべきやというに、ここにいたっても、余輩にはまた少しく説あり。道徳の教も人の教育の一カ条にして、必ず欠くべからざるものたるは論をまたず。たとえば人の生活に塩の欠くべからざるが如し。而《しこう》してその教の種類には、儒もあり、仏もあり、また神道、耶蘇もあり、たいてい同様のものならん。されども、日本には古来、儒者の道、もっとも繁昌したるゆえに、まず慣れたるものを用うるとして、かりに儒にしたがうも、今の儒者をしてそのまま得意の四書五
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