経を講論せしめて、もって道徳の教に十分なりとはなし難し。
 聖人の本意は、後世より測り知るべからざるものとして、しばらくこれを擱《さしお》き、その聖人の道と称して、数百年も数千年も、儒者のこれを人に教えて、人のこれを信じたる趣《おもむき》をみれば、欠点、はなはだ少なからず。就中《なかんずく》、その欠点の著しきものは、孝悌忠信、道徳の一品をもって人生を支配せんとするの気風、これなり。とりも直さず、塩の一味《ひとあじ》をもって人の食物に供せんとするに異《こと》ならず。塩は食物に大切なり。これを欠くべからずといえども、一味をもって生を保つべからず。
 けだしこの一味《ひとあじ》、つまりは聖人の本意にも非ず、また後世の儒者にても、その本意に背《そむ》くを知りてこれを弁ずる者ありといえども、いかんせん、世人の精神に感ずるところは、道徳の一品をもって身を立《たつ》るの資本となし、無芸にても無能にても、これに頓着《とんちゃく》せざる者あるが如し。その趣《おもむき》は、著者と読者との間に誤解を生じ、教育と学者との間に意味の通ぜざるが如し。すでに誤解を生じて意味の通ぜざることあれば、その本意の性質にかか
前へ 次へ
全19ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング