間《てま》だけははぶくべし。ここにて考うれば、筆算に便利あるが如くなれども、数の文字、十字だけは、横文《おうぶん》を知らずしてかなわぬことなれば、今の学校にて教育を受けたるものよりほかには通用すべからず。たとい学校にて加減乗除・比例等の術を学び得て家に帰るも、世間一般は十露盤の世界にしてたちまち不都合あり。
 父兄はもちろん、取引先きも得意先きも、十露盤ばかりのその相手に向い、君は旧弊の十露盤、僕は当世の筆算などと、石筆をもって横文字を記すとも、旧弊の連中、なかなかもって降参の色なくして、筆算はかえって無算視《むさんし》せらるるの勢なり。いわんや、その筆算の加減乗除も少しく怪しき者においてをや。学校の勉強はまったく水の泡《あわ》なり。もしもこの生徒が入学中に十露盤の稽古《けいこ》したることならば、その初歩に廃学するも、雑用帳の〆揚《しめあ》げぐらいは出来《でき》て、親の手助けにもなるべきはずなるに、虎の画を学んで猫とも犬とも分らぬもののできたるさまなり。つまり猫ならばはじめから猫を学ぶの便利にしかず。理屈においては筆算と十露盤とともに便利なれども、今の浮世の事実においては、筆算は不便利といわざるをえざるなり。
 小学には少しく縁の遠きことなれども、筆算のついでに記簿|帳合《ちょうあい》の事をいわん。明治の初年、余が始めて西洋|簿記法《ぼきほう》の書を読み、その後これを翻訳して『帳合之法』二冊を出版せしころより、世間にもようやく帳合の大切なるを知り、近来は稀《まれ》に俗間にもこの帳合法を用うるものあり。然るに西洋流の帳面をそのままに用い、横文の数字を横に記して、人の姓名も取引の事柄も日本の字を横に書き、いわば額面《がくめん》の文字を左の方から読む趣向にするものありと聞けり。
 この趣向はなはだ便利なり。第一、西洋の帳面を摸製するにやすく、あるいは摸製せざるも出来合《できあい》の売物もあり。第二、文字こまかに帳面薄くして取扱に便利なり。少しく横文字の心得ある者なれば、西洋の記簿法を翻訳するにも及ばず、ただちにその法にしたがってその帳面を用ゆべしといえども、今後永年の間、日本国中に帳合法流行の盛否《せいひ》に関しては、おおいに不便利なるものあり。
 そもそも帳合法の大切なるは、いまさらいうまでもなし。帳合の法を知らずして商売する者は、道を知らずして道を歩行する人の如し。風致《ふうち》もなく快楽もなきのみならず、あるいは行過ぎ、あるいは回り道して、事実に大なる損亡を蒙《こうむ》る者なきに非ず。一身一家の不始末はしばらくさしおき、これを公《おおやけ》に論じても、税の収納、取引についての公事《くじ》訴訟、物産の取調べ、商売工業の盛衰等を検査して、その有様を知らんとするにも、人民の間に帳合法のたしかなる者あらざれば、暗夜に物を探るが如くにして、これに寄つくべき方便なし。日本にて統計表の不十分なるも、その罪、多くは帳合法のふたしかなるによるものなり。
 帳合法の大切なることかくの如く、これを民間に用うるは、公私の為に欠くべからざるの急なれども、今これを記すに横文の数字を用い、額に等しき左行の日本語を書き、ついにこれを世間に流行せしむるの見込あるべきや。余輩には断じてその見込あることなし。草書を楷書に変じ、平仮名を片仮名にせんとするも、容易に行われ難き通俗世界の人民へ、横文左行の帳合法を示すも、人民はその利害得失を問うにいとまあらず、まずその外見の体裁に驚きてこれを避くることならん。
 ゆえに、今の横文字の帳合法は、一家に便利なり、上等の社会に便利なり、学者の流《りゅう》に適すべし、官員の仲間に適すべしといえども、人民の社会には適当せざるのみならず、かえってその体裁の怪しきがために、法の実用をも嫌わしむるものというべし。
 この官員なり、また学者なり、永遠無窮、人民と交際を絶つの覚悟ならばすなわち可ならんといえども、いやしくも上流の知見を下流に及さんとするには、その入門の路をやすくして、帳合にも日本の縦《たて》の文字を用い、法を西洋にして体裁を日本にせんこと、一大緊要の事なり。たとえば学者先生の家にしても、横の帳合法は、主人に便利にして、細君に不便利ならん。この主人が、家計の事についてはまったく細君をして知らしめず、主人と細君とあたかも他人の如くならんとするの覚悟ならば、すなわち可《か》ならんといえども、夫婦ともに一家の経済を始末せんと思わば、婦人にも分りやすき法を用うるこそ策の得たるものというべけれ。その利害、もとより明白にして、喋々《ちょうちょう》弁論するにも及ばざることなり。
 ある人の考に、日本の文字を用うれば、人の姓名を記し事柄を書くには、もとより便利なれども、数字にいたっては、二五八三と記して二千五百八十三と解《げ》すは、これまた人
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