民社会に不通用のことなりとの説もあれども、ひっきょう、縦の文字を縦に用うることにて、人を驚かすほどの奇に非ず。一二三の字は如何なる下等の民もたいてい知らざるものなし。ただその用法に心を用うるのみにして足るべし。西洋の数字にいたっては、わずかに十字なりといえども、開闢《かいびゃく》以来、人の知らざるものなれば、これを学ぶにも多少の精神を費さざるをえず。すでに字の形を学ぶに精神を費し、またその用法をことにす。これを日本の数字に比し、便不便はいわずして明らかなり。
結局、今の横文帳合はなにほどに流行するも、早晩、いずれのところにか突当りて、上流と下流との関所を生ぜざるをえず。縦の帳合はその入門の路、たとい困難なるも、関所を生ずるの患《うれい》なし。たとえば今、日本大政府の諸省に用うる十露盤も、寒村|僻邑《へきゆう》の小店に用うる十露盤も、乗除の声に異同なきは、上下の勘定法に関所なきものなり。帳合の法もかくありたきことと余輩の願う所なり。あるいはまた前の如く、二五八三と記すを不便なりといえば、平たく二千五百八十三円と記して、西洋帳合の趣意にしたがうべき仕方もあり。その説はこれを他日に譲る。
小学教育の事 四
方今《ほうこん》、世の識者が小学校の得失を論じ、その技芸の教授を先にして道徳の教を後にするを憂《うれう》る者なきに非ず。たとえば、天文、地理、究理、化学等は技芸なり。孝悌忠信は道徳なり。究理化学を学び得るも、孝悌忠信の道を知らざれば、世の風俗は次第に悪しくなるべしとて、もっぱら儒者の教を主張して、あるいは小学校の読本に、『論語』、『大学』等の如き経書《けいしょ》を用いんとするの説あり。
この説、はなはだ理あり。人としてただ技芸のみを知り、道の何ものたるを弁《わきま》えずんば、ほとんど禽獣に近し。道徳の教、はなはだ大切なりといえども、余輩の考は少しくこれに異なり。その異なる所は道徳を不用なりというには非ず。小学校に『論語』『大学』の適当せざるをいうなり。今の日本の有様にて、今の小学校はただ、下民《かみん》の子供が字を学び数を知るまでの場所にて、成学の上、ひと通りの筆算帳面のつけようにてもできれば満足すべきものなり。技芸も道徳も未《いま》だ顧《かえりみ》るにいとまあらず。
儒者にかぎらず、洋学者流も、この辺の事情については、はなはだ粗漏《そろう》迂闊《うかつ》の罪をまぬかれ難し。小学の教則に、さまざま高上なる課目をのせ、技芸も頂上に達して、画学、音楽、唱歌、体操等を教授せんとする者あるが如し。田舎の百姓の子に体操とは何事ぞ。草を刈り、牛を飼い、草臥《くたびれ》はてたるその子供を、また学校に呼びて梯子登りの稽古か、難渋至極というべし。
『論語』『大学』の教もまた、この技芸の如し。今の百姓の子供に、四角な漢字の素読《そどく》を授け、またはその講釈するも、もとより意味を解すものあるべからず。いたずらに双方の手間潰《てまつぶ》したるべきのみ。古来、田舎にて好事《ものずき》なる親が、子供に漢書を読ませ、四書五経を勉強する間に浮世の事を忘れて、変人奇物の評判を成し、生涯、身を持て余したる者は、はなはだ少なからず。ひっきょう、技芸にても道徳にても、これを教うるに順序を誤り場所を誤るときは、有害無益たるべし。今の小学校は高上なる技芸・道徳を教うる場所に非ざるなり。
小学校の教育は、いつにても廃学のときに、幾分か生徒の身に実《じつ》の利益をつけて、生涯の宝物となすべきこと、余輩の持論なり。ゆえに人民の貧富、生徒の才・不才に応じて、国中の学校も二種に分れざるをえず。すなわち一は普通の人民に日用の事を教うる場所にして、一は学者の種《たね》を育つる場所なり。銭《ぜに》あり才あるものは、もとより今の小学校にとどまるべからず。あるいは最初よりこれに入らずして、上等の学校に入るべし。すなわち地方に中学校の入用というも、このわけなり。小中大といえば、順序をへて次第に上るべきように聞《きこゆ》れども、事実、人の貧富、才・不才にしたがって、はじめより区別するか、あるいは入学の後、自然にその区別なきを得ず。世の中の大勢これをいかんともすべからざるなり。
右の如く学校の種類を二に分けて、その上等のものには、道徳の教に四書五経を用ゆべきやというに、ここにいたっても、余輩にはまた少しく説あり。道徳の教も人の教育の一カ条にして、必ず欠くべからざるものたるは論をまたず。たとえば人の生活に塩の欠くべからざるが如し。而《しこう》してその教の種類には、儒もあり、仏もあり、また神道、耶蘇もあり、たいてい同様のものならん。されども、日本には古来、儒者の道、もっとも繁昌したるゆえに、まず慣れたるものを用うるとして、かりに儒にしたがうも、今の儒者をしてそのまま得意の四書五
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