経を講論せしめて、もって道徳の教に十分なりとはなし難し。
聖人の本意は、後世より測り知るべからざるものとして、しばらくこれを擱《さしお》き、その聖人の道と称して、数百年も数千年も、儒者のこれを人に教えて、人のこれを信じたる趣《おもむき》をみれば、欠点、はなはだ少なからず。就中《なかんずく》、その欠点の著しきものは、孝悌忠信、道徳の一品をもって人生を支配せんとするの気風、これなり。とりも直さず、塩の一味《ひとあじ》をもって人の食物に供せんとするに異《こと》ならず。塩は食物に大切なり。これを欠くべからずといえども、一味をもって生を保つべからず。
けだしこの一味《ひとあじ》、つまりは聖人の本意にも非ず、また後世の儒者にても、その本意に背《そむ》くを知りてこれを弁ずる者ありといえども、いかんせん、世人の精神に感ずるところは、道徳の一品をもって身を立《たつ》るの資本となし、無芸にても無能にても、これに頓着《とんちゃく》せざる者あるが如し。その趣《おもむき》は、著者と読者との間に誤解を生じ、教育と学者との間に意味の通ぜざるが如し。すでに誤解を生じて意味の通ぜざることあれば、その本意の性質にかかわらず、これを不十分なりといわざるをえず。
然りといえども世の中の事はすべて平均をもって成るものなれば、この平均を得るときは、何事にてもほとんど害悪なきものなり。古来、日本の教を道徳と技芸との両様に区別して、その釣合いかんを尋ぬれば、甲重くして乙軽しといわざるをえず。すなわち徳あまりありて智足らざるなり。余輩もとよりこの徳の量を減ぜんというに非ず。勉めて智の不足を足して、すでにあまりある徳の量にひとしからしめ、もって文明の度をいっそうの高きに置かんと欲するなり。ゆえに今の儒者も道徳の一味に安んずることなくして、勉て智学に志し、智徳その平均を得て、はじめて四書五経をも講論せしむべきなり。
底本:「福沢諭吉教育論集」岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年3月18日第1刷発行
底本の親本:「福沢諭吉選集 第12巻」岩波書店
1981(昭和56)年9月25日第1刷発行
初出:「福澤文集 二編」中島氏蔵版
1879(明治12)年8月新刻
入力:田中哲郎
校正:noriko saito
2009年10月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング