]、ニシメ[#「ニシメ」に白丸傍点]と記したるを見ず。今このめし[#「めし」に白丸傍点]の字は俗なるゆえメシ[#「メシ」に白丸傍点]と改むべしなど国中に諭告《ゆこく》するも、決して人力の及ぶべき所に非ず。
さればここに小学の生徒ありて、入学の後一、二カ月をすぎ、当人の病気か、親の病気か、または家の世帯《せたい》の差支《さしつかえ》をもって、廃学することあらん。その廃学のときに、これまで学び得たるものを調べて、片仮名を覚えたると平仮名を覚えたると、いずれか生涯の利益たるべきや。平仮名なれば、ごくごく低き所にて、めしやの看板を見分くる便《たより》にもなるべきことなれども、片仮名にてはほとんど民間にその用なしというも可なり。これらの便・不便を考うれば、小学の初学第一歩には、平仮名の必要なること、疑《うたがい》をいるべからざるなり。
また、片仮名にもせよ、平仮名にもせよ、いろは四十七文字を知れば、これを組合せて日用の便を達するのみならず、いろはの順序は一二三の順序の代りに用い、またはこれに交《まじ》え用うること多し。たとえば、大工が普請《ふしん》するとき、柱の順番を附くるに、梁間《はりま》(家の幅なり)の方、三尺|毎《ごと》にいろはの印を付け、桁行《けたゆき》(家の長さ)の方、三尺毎に一二三を記し、いの三番、ろの八番などいうて、普請の仕組もできるものなり。大工のみにかぎらず、無尽講《むじんこう》のくじ、寄せ芝居の桟敷《さじき》、下足番《げそくばん》の木札等、皆この法を用うるもの多し。学者の世界に甲乙丙丁の文字あれども、下足番などには決して通用すべからず。いろはの用法、はなはだ広くして大切なるものというべし。
然るに不思議なるは、王制維新以来、五十|韻《いん》ということを唱《となえ》だして、学校の子供に入学のはじめより、まずこの五十韻を教えて、いろはを後にするものあり。元来五十韻は学問(サイヤンス)なり。いろはは智見(ノウレジ)なり。五十韻は日本語を活用する文法の基《もとい》にして、いろははただ言葉の符牒《ふちょう》のみ。
この符牒をさえ心得れば、たといむつかしき文法は知らずとも、日用の便利を達するに差支えはなかるべし。文法の学問、はなはだ大切なりといえども、今日の貧民社会、まず日用を便じて後の学問ならずや。五十韻を暗誦して、いろはを知らざる者は、下足番にも用うべからず。然るに、生れて第一番の初学に五十韻とは、前後の勘弁なきものというべし。この事は七、八年前より余が喋々《ちょうちょう》説弁《せつべん》する所なれども、かつてこれに頓着《とんちゃく》する者なし。近来はほとんど説弁にも草臥《くたびれ》たれども、なおこれを忘るること能わず。最後の一発としてここにこれを記すのみ。
書家の説にいわく、楷書《かいしょ》は字の骨にして草書は肉なり、まず骨を作りて後に肉を附くるを順序とす、習字は真より草に入るべしとて、かの小学校の掛図などに楷書を用いたるも、この趣意ならん。一応もっとも至極の説なれども、田舎の叔母より楷書の手紙到来したることなし、干鰯《ほしか》の仕切《しきり》に楷書を見たることなし、世間日用の文書は、悪筆にても骨なしにても、草書ばかりを用うるをいかんせん。しかのみならず、大根の文字は俗なるゆえ、これに代るに蘿蔔《らふく》の字を用いんという者あり。なるほど、細根《ほそね》大根を漢音《かんおん》に読み細根《さいこん》大根といわば、口調も悪しく字面《じづら》もおかしくして、漢学先生の御意《ぎょい》にはかなうまじといえども、八百屋の書付《かきつけ》に蘿蔔一束|価《あたい》十有幾銭と書きて、台所の阿三《おさん》どんが正《まさ》にこれを了承《りょうしょう》するの日は、明治百年の後もなお覚束《おぼつか》なし。
このほかにも俗字の苦情《こごと》をいえば、逸見《へんみ》もいつみと読み、鍛冶町《かぢちょう》も鍛冶町と改めてたんやちょうと読むか。あるいはまた、同じ文字を別に読むことあり。こは、その土地の風ならん。東京に三田《みた》あり、摂州《せっしゅう》に三田《さんだ》あり。兵庫の隣に神戸《こうべ》あれば、伊勢の旧城下に神戸《かんべ》あり。俗世界の習慣はとても雅学先生の意に適すべからず。貧民は俗世界の子なり。まず、骨なしの草書を覚えて廃学すればそれきりとあきらめ、都合よければ後に楷書の骨法をも学び、文字も俗字を先きにして雅言を後にし、まず大根を知って後に蘿蔔に及ぶべきなり。
小学教育の事 三
筆算と十露盤《そろばん》といずれか便利なりと尋ぬれば、両様ともに便利なりと答うべし。石盤と石筆との価、十露盤よりも高からず、その取扱もまた十露盤に異ならず。かつ、筆算は一人の手にかない、十露盤は二人を要す。算の遅速《ちそく》は同様なるも、一人の手
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