、おおむね和蘭の医籍に止まりて、かたわらその窮理《きゅうり》、天文、地理、化学等の数科に及ぶのみ。ゆえに当時、この学を称して蘭学といえり。
 けだしこの時といえども、通商の国は和蘭一州に限り、その来舶《らいはく》するや、ただ西陲《せいすい》の一長崎のみなれば、なお書籍のとぼしきに論なく、すべて修学の道、はなはだ便ならざれば、未《いま》だ隔靴《かくか》の憾《うらみ》を免れず。然るに嘉永の季《すえ》、亜美利駕《アメリカ》人、我に渡来し、はじめて和親貿易の盟約を結び、またその好《よしみ》を英、仏、魯等の諸国に通ぜしより、我が邦の形勢、ついに一変し、世の士君子、皆かの国の事情に通ずるの要務たるを知り、よって百般の学科、一時に興り、おのおのその学を首唱し、生徒を教育し、ここにいたりてはじめて洋学の名、起れり。これあに文学の一大進歩ならずや、おもうに一事一運の将《まさ》に開かんとするや、進むに必ず漸《ぜん》をもってす。たとえばなお楼閣にのぼるに階級あるが如し。すなわち天保・弘化の際、蘭学の行われしは、宝暦・明和の諸哲これが初階を成し、方今、洋学のさかんなるは、各国の通好によるといえども、実に天保・
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