教育の目的
福沢諭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)頃日《けいじつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)真実|無妄《むもう》なるを知るべし
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
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この一編は、頃日《けいじつ》、諭吉が綴るところの未定稿中より、教育の目的とも名づくべき一段を抜抄《ばっしょう》したるものなれば、前後の連絡を断つがために、意をつくすに足らず、よってこれを和解《わげ》演述して、もって諸先生の高評を乞う。
[#ここで字下げ終わり]
教育の目的は、人生を発達して極度に導くにあり。そのこれを導くは何のためにするやと尋ぬれば、人類をして至大の幸福を得せしめんがためなり。その至大《しだい》の幸福とは何ぞや。ここに文字の義を細かに論ぜずして民間普通の語を用うれば、天下泰平・家内安全、すなわちこれなり。今この語の二字を取りて、かりにこれを平安の主義と名づく。人として平安を好むは、これをその天性というべきか、はた習慣というべきか。余は宗教の天然説を度外視する者なれば、天の約束というも、人為《じんい》の習慣というも、そのへんはこれを人々《にんにん》の所見にまかして問うことなしといえども、ただ平安を好むの一事にいたりては、古今人間の実際に行われて違《たが》うことなきを知るべきのみ。しからばすなわち教育の目的は平安にありというも、世界人類の社会に通用して妨《さまたげ》あることなかるべし。
そもそも今日の社会に、いわゆる宗旨なり、徳教なり、政治なり、経済なり、その所論おのおの趣《おもむき》を一にせずして、はなはだしきは相互《あいたがい》に背馳《はいち》するものもあるに似たれども、平安の一義にいたりては相違《あいたが》うなきを見るべし。宗旨・徳教、何のためにするや。善を勧めて精神の平安をいたすのみ。政治、何のためにするや。悪を懲《こ》らし害を防ぎて、もって心身の平安を助くるのみ。経済、何のためにするや。人工を便利にして形体の平安を増すのみ。されば平安の主義は人生の達するところ、教育のとどまるところというも、はたして真実|無妄《むもう》なるを知るべし。
人あるいはいわく、天下泰平・家内安全をもって人生教育の極度とするときは、野蛮|無為《むい》、羲昊《ぎこう》以上の民をもって人類のとどまるところとなすべし。近くは我が徳川政府二百五十余年の泰平の如きは、すなわち至善至美ならんとの説もあれども、この説は事物の末を見て、その本《もと》を知らざる者のみ。野蛮の無為、徳川の泰平の如きは、当時その人民の心身、安《あん》はすなわち安なりといえども、その安は身外の事物、我に向って愉快を呈するに非ず。外の事物の性質にかかわらずして、我が心身にこれを愉快なりと思うものにすぎず。すなわち万民|安堵《あんど》、腹を鼓《こ》して足《た》るを知ることなれども、その足るを知るとは、他《た》なし、足らざるを知らざりしのみ。
たとえば往古《おうこ》支那にて、天子の宮殿も、茆茨《ぼうし》剪《き》らず、土階《どかい》三等《さんとう》、もって安しというといえども、その宮殿は真実安楽なる皇居に非ず。かりに帝堯《ていぎょう》をして今日にあらしめなば、いかに素朴節倹なりといえども、段階に木石を用い、屋《おく》もまた瓦をもって葺《ふ》くことならん。また徳川の時代に、江戸にいて奥州《おうしゅう》の物を用いんとするに、飛脚《ひきゃく》を立てて報知して、先方より船便《ふなびん》に運送すれば、到着は必ず数月の後なれども、ただその物をさえ得れば、もって便利なりとして悦《よろこ》びしことなれども、今日は一報の電信に応じて、蒸気船便に送れば、数日にして用を弁ずべし。数年の後、奥羽地方に鉄道を通ずるの日には、今の蒸気船便もまた、はなはだ遅々《ちち》たるを覚ゆることならん。
ゆえに、古人の便利とするところは、今日はなはだ不便なり。今日の便利は、今後また不便とならん。古人は今を知らずして、当時の事物を便利なりと思いしことにて、今人《こんじん》もまた今後を知らずして、今を安楽と思うのみ。また近くこれを譬《たと》うれば、かの煙草を喫する者を見よ。一|斤《きん》の価十銭の葉を喫するも、口に美《び》ならざるに非ず。その後二十銭のものを買い、これに慣るること数日なれば、またはじめの麁葉《そよう》を喫すべからず。
ついでまた朋友親戚等より、某国産の銘葉《めいよう》を得て、わずかに一、二管を試みたる後には、以前のものはこれを吸うべからざるのみならず、かたわらにこれを薫《くん》ずる者あれば、その臭気を嗅《か》ぐにも堪えず。もしも強《し》いて自《みず》からこれを用いんとすれば、ただ苦痛不快を
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