覚うべきのみ。これを吸煙の上達と称し、世人の実験においてあまねく知るところなり。ひとしく同一の煙草にして、はじめはこれを喫して美なりしもの、今はかえって口に不快を覚えしむ。然らばすなわちこの麁葉《そよう》は、最初に美を呈したるに非ず、ただ我が当時の口にてこれを美と称し快楽と思いしのみ。すなわち人生の働《はたらき》の一ヵ条たる喫煙も、その力よく発達すれば、わずかに数日の間に苦楽の趣《おもむき》を異《こと》にするの事実を見るべし。
 ゆえに天下泰平・家内安全の快楽も、これを身に享《う》くる人の心身発達して、その働を高尚の域にすすむるときは、古代の平安は今世の苦痛不快たることあるべし。余輩のいわゆる平安とは、精神も形体もともに高尚に達して、この高尚なる心身に応じて平安なるものを平安と名づくるなり。すなわちこの平安を目的とするところの教育の旨《むね》は、人生の働の一ヵ条をも空しゅうせずして快楽を得んとするにあり。足るを知るを勧むるにあらず、足らざるを知りてこれを足すの道を求むるにあるものなり。野蛮の無為《むい》、徳川の泰平の如きは、平安と称すべからざるのみならず、かえってこれを苦痛不快と認めざるをえず。その平安の美は煙草の麁葉にひとしきものといいて可なり。
 またある人の説に、平安を好むは人情において、あるいは然るに似たりといえども、今日の事実においておおいに然らざるものあり。大は各国の交際に権を争い、小は人々《にんにん》の渡世に利を貪《むさぼ》り、はなはだしきは物を盗み人を殺すものあり。なおはなはだしきは、かの血気の少年軍人の如きは、ひたすら殺伐戦闘をもって快楽となし、つねに世の平安をいとうて騒乱多事を好むが如し。ゆえに平安の主義は、人類のこの一部分に行われて、他の一部分には通用すべからずとの問題あれども、この問題に答うるははなはだ難きに非ず。国の権を争い人の利を貪《むさ》ぼるは、他なし、自国自身の平安を欲する者なり。
 また、物を盗み人を殺す者といえども、自から利して自己の平安幸福をいたさんと欲するにすぎず。盗んでこれを匿《かく》し、殺して遁逃《とんとう》するは何ぞや。他の平安幸福をば害すれども、おのずから害するを好まざるの証なり。また、いかなる盗賊にても博徒にても、外に対しては乱暴無状なりといえども、その内部に入りて仲間の有様を見れば、朋輩の間、自《おのず》から約束あり、規則あり。すなわちその約束規則は自家の安全をはかるものより外ならず。しかのみならず、この法外の輩が、たがいにその貧困を救助して仁恵を施し、その盗みたる銭物を分つに公平の義を主とし、その先輩の巨魁《きょかい》に仕えて礼をつくし、窃盗を働くに智術をきわめ、会同・離散の時刻に約を違《たが》えざる等、その局処についてこれをみれば、仁義礼智信を守りて一社会の幸福を重んずる者の如し。ゆえに平安の主義は、法外の仲間にも行われて、有力なるものといわざるをえざるなり。
 また、血気《けっき》の輩《はい》が、ただ社会の騒動を企望《きぼう》して変を好み、自己の利益をもかえりみずして妄《みだり》に殺伐をこととするは、平安の主義にもとるが如くなれども、つまびらかにその内情を察すれば、必ず名利のためより外ならざるを発明すべし。名利とは何ぞや。他なし、自己の幸福、社会の安全に関係するところのものなれども、ただ審判の力に乏しくして、あるいは事の成《せい》を期すること急に過ぎ、あるいはその事を施行《しこう》すること劇《げき》に過ぎて、心事の本色を現わすこと能わざるのみ。
 たとえば少年の勇士が死を決して自から快と称する者あれども、その快たるや、ただ絶命のみをもって快とするに非ず。その時の事情をいえば、本人の心に企《くわだ》つるところの事は大に過ぎて、これに応ずべき自己の力は小にして足らず、その大小の平均を得るに路なきがために、無上の宝たる一命をもて己《おの》が企つるところの事に殉じ、いささかその情を慰めて、もって快と称するものなり。けだしこの類《たぐい》の愉快は、形体に関係なくして精神に属す。形体にありては安楽と称し、精神にありては愉快という。その文字|異《こと》なりといえども、結局平安の主義に洩れざるものなり。
 また、今の我が日本にて新政府を建て、今日もっぱら社会の平安を欲して焦思苦慮《しょうしくりょ》する者は誰ぞや。十余年前にありては、しきりに世の多事を好み騒動を企望して余念なかりし血気の士人に非ずや。その士人の中には殺伐無状、人を殺し家を焼き、およそ社会の平安を害すべき事なれば一も避くるところなく、ついに身を容《い》るるの地なきにいたれば、快と称して死につきし者もあり。幸にして死にいたらざりし者が、今の地位にいて事をとるのみ。すなわち昔日《せきじつ》は乱を好み、今日は治を欲する者なり。

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