もしも維新の一挙、当初に失敗したらば、この輩はただ世の騒乱を好みて平安をいとう者とて、天下後世の評論を受け、あるいはその寃《えん》を訴うるによしなきを知るべからずといえども、偶然に今日の事実を見ればこそ、前年に乱を好みしは、その心事の本色《ほんしょく》に非ず、その乱はただ改めて治安をいたすの方便たりしとの事実も、はじめて明白なるを得たることなれ。これまた本論の一例として見るべし。人生決して乱を好むものに非ざるなり。
 右の如く平安を好むの人情は、世界中に通用してたがうことなく、各国の交際も人々《にんにん》の渡世《とせい》も、その目的、平安にあらざるはなし。なお進みて戦闘殺伐、物を盗み人を殺す者も、この主義に洩《も》れざるものとするときは、人生の目的は、他を害して身を利するにすぎず。これをもって教育の本旨とするは当らざるに似たれども、人生発達の点に眼《まなこ》を着《ちゃく》すれば、この疑を解くに足るべし。そもそも人生の智識、未だ発せざるに当りては、心身の働《はたらき》、ただ形体の一方に偏するを常とす。いわゆる手もて口に接する小児の如き、これなり。野蛮未開、耕して食らい井を掘りて飲むが如き、これなり。すでに食らいすでに飲むときは、口腹の慾、もって満足すべしといえども、なお足らざるものあり。衣服なかるべからず、住居なかるべからず。衣食住居すでに備わり、一家もって安楽なり。なお足らざるものあり。隣人のつきあいなかるべからず、社会の交際なかるべからず。
 すでに交際あるときは、その交《まじわ》るところの者は高尚にして美ならんことを欲するもまた人情なり。他人の醜美は我が形体の苦楽に関係なきものなれども、その美を欲するはあたかも我が家屋を装い庭園を脩《おさ》め、自からこれを観《み》て快楽を覚ゆるの情に異《こと》ならず。家屋庭園の装飾はただちに我が形体の寒熱|痛痒《つうよう》に感ずるに非《あら》ざれども、精神の風致を慰《なぐさむ》るの具《ぐ》にして、戸外の社会に交りてその社会の美を観るもまた、我が精神の情を慰めて愉快を覚えしむるの術なり。
 現に今日の人間交際を見るに、いかなる人にても、交《まじわり》を求むるに上流を避けて下流につく者を見ず。ことさらに富貴の人を嫌うて、貧賤を友とする者を見ず。その富貴上流の人に交るや、必ずしも(往々あれども)彼の富貴を取りて我に利するに非ざれども、おのずからこれに接して快きものあればなり。なお俗間の婦女子が俳優を悦び、男子が芸妓を愛するが如し。そのこれを愛するや、必ずしも(往々あれども)色慾に出ずるに非ず。ただこれを観て我が情を慰むるのみ。すなわち我が形体に関係なくして他の美を悦ぶものなり。すでに社会の美を欲す。然らばすなわち、その醜を悪《にく》むもまた人情ならざるをえず。その醜を変じて美となすべきの術あれば、その術を求めてこれを施すもまた人情なり。
 ここにおいてか貧困を救助し、文盲を教育する者あり。これを仁人君子と称す。仁人君子は、我が利害を棄てて人のためにし、我に損して他に益《えき》すというといえども、その実は決して然らず。その棄《すつ》るところのものは、形体に属する財物か、または財にひとしき時間、心労にして、その報《むくい》として得るものには、我が情を慰むるの愉快あり。すなわち形体の安楽を売りて精神の愉快を買うものなり。人生の発達、そのまったきを得て、形体の安楽にかねて精神の愉快を重んずるの日にいたり、はじめて人類至大の幸福を見るべきなり。
 けだし、かの盗賊以下、他を害して身を利する者の如きは、その生の働、発達せずして、平安の主義にしたがうこと、わずかに形体の一方に止まりて、未だ精神の愉快なるものを知るにいたらず、あるいはその愉快とするところの境界はなはだ狭くして、身外の美をもっておのずから楽しむの情に乏しきもののみ。なお無智の小児が物の旨否《しひ》を知りて醜美を弁せざるが如し。
 教育の旨は、形体と精神と両《ふたつ》ながらこれを導きて、その働の極度にいたらしむるにあり。ゆえに世に害他利身《がいたりしん》の輩《はい》あるは、教育の未だあまねからずして、人生の未だ発達せざるものなれども、平安の主義はおのずからその間に行われて故障を見ざるものと知るべし。
 形体の安楽を知りて精神の愉快を知らざる者は、とくに盗賊以下に限らず、現今世界各国の交際においてもまた然り。かの西洋諸国の人民がいわゆる野蛮国なるものを侵して、次第にその土地を奪い、その財産を剥《は》ぎ、他の安楽を典《てん》して自から奉ずるの資《し》となすが如き、その処置、毫《ごう》も盗賊に異ならず。
 在昔《ざいせき》、欧羅巴の白人が亜米利加に侵入してその土人を逐い、英人が印度地方大洋諸島に往来して暴行をたくましゅうしたるもその一例なり。今日西洋に
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