、おのずからこれに接して快きものあればなり。なお俗間の婦女子が俳優を悦び、男子が芸妓を愛するが如し。そのこれを愛するや、必ずしも(往々あれども)色慾に出ずるに非ず。ただこれを観て我が情を慰むるのみ。すなわち我が形体に関係なくして他の美を悦ぶものなり。すでに社会の美を欲す。然らばすなわち、その醜を悪《にく》むもまた人情ならざるをえず。その醜を変じて美となすべきの術あれば、その術を求めてこれを施すもまた人情なり。
 ここにおいてか貧困を救助し、文盲を教育する者あり。これを仁人君子と称す。仁人君子は、我が利害を棄てて人のためにし、我に損して他に益《えき》すというといえども、その実は決して然らず。その棄《すつ》るところのものは、形体に属する財物か、または財にひとしき時間、心労にして、その報《むくい》として得るものには、我が情を慰むるの愉快あり。すなわち形体の安楽を売りて精神の愉快を買うものなり。人生の発達、そのまったきを得て、形体の安楽にかねて精神の愉快を重んずるの日にいたり、はじめて人類至大の幸福を見るべきなり。
 けだし、かの盗賊以下、他を害して身を利する者の如きは、その生の働、発達せずして、平安の主義にしたがうこと、わずかに形体の一方に止まりて、未だ精神の愉快なるものを知るにいたらず、あるいはその愉快とするところの境界はなはだ狭くして、身外の美をもっておのずから楽しむの情に乏しきもののみ。なお無智の小児が物の旨否《しひ》を知りて醜美を弁せざるが如し。
 教育の旨は、形体と精神と両《ふたつ》ながらこれを導きて、その働の極度にいたらしむるにあり。ゆえに世に害他利身《がいたりしん》の輩《はい》あるは、教育の未だあまねからずして、人生の未だ発達せざるものなれども、平安の主義はおのずからその間に行われて故障を見ざるものと知るべし。
 形体の安楽を知りて精神の愉快を知らざる者は、とくに盗賊以下に限らず、現今世界各国の交際においてもまた然り。かの西洋諸国の人民がいわゆる野蛮国なるものを侵して、次第にその土地を奪い、その財産を剥《は》ぎ、他の安楽を典《てん》して自から奉ずるの資《し》となすが如き、その処置、毫《ごう》も盗賊に異ならず。
 在昔《ざいせき》、欧羅巴の白人が亜米利加に侵入してその土人を逐い、英人が印度地方大洋諸島に往来して暴行をたくましゅうしたるもその一例なり。今日西洋に
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング