京都学校の記
福沢諭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訪《と》う

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)明治五年|申《さる》五月|朔日《ついたち》

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(例)[#地から2字上げ]福沢諭吉記
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 明治五年|申《さる》五月|朔日《ついたち》、社友|早矢仕《はやし》氏とともに京都にいたり、名所旧跡はもとよりこれを訪《と》うに暇《いとま》あらず、博覧会の見物ももと余輩《よはい》上京の趣意にあらず、まず府下の学校を一覧せんとて、知る人に案内を乞い、諸処の学校に行きしに、その待遇きわめて厚く、塾舎・講堂、残るところなく見るを得たり。よって今、その所見の大略を記して、天下同志の人にしめすこと左の如し。
 京都の学校は明治二年より基《もとい》を開きしものにて、目今《もっこん》、中学校と名《なづく》る者四所、小学校と名るもの六十四所あり。
 市中を六十四区に分て学校の区分となせしは、かの西洋にていわゆるスクールヂストリックトならん。この一区に一所の小学校を設け、区内の貧富貴賤を問わず、男女生れて七、八歳より十三、四歳にいたる者は、皆、来りて教を受くるを許す。
 学校の内を二に分《わか》ち、男女ところを異にして手習せり。すなわち学生の私席なり。別に一区の講堂ありて、読書・数学の場所となし、手習の暇に順番を定め、十人|乃至《ないし》十五人ずつ、この講堂に出でて教を受く。
 一所の小学校に、筆道師《ひつどうし》・句読師《くとうし》・算術師、各一人、助教の数は生徒の多寡にしたがって一様ならず、あるいは一人あり、あるいは三人あり。
 学校、朝第八時に始り午後第四時に終る。科業は、いろは五十韻より用文章等の手習、九々の数、加減乗除、比例等の算術にいたり、句読は、府県名・国尽《くにづくし》・翻訳の地理・窮理書・経済書の初歩等を授け、あるいは訳書の不足する所はしばらく漢書をもって補い、習字・算術・句読・暗誦、おのおの等《とう》を分ち、毎月、吟味の法を行い、春秋二度の大試業には、教員はもちろん、平日教授にかかわらざる者にても、皆、学校に出席し、府の知参事より年寄にいたるまで、みずから生徒に接して業を試み、その甲乙に従て、筆、紙、墨、書籍《しょじゃく》等の褒美《ほうび》をあたうるを例とす。ゆえにこの
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