わしく、子弟の教育を顧《かえりみ》るに遑《いとま》あらず。故に下等士族は文学その他|高尚《こうしょう》の教に乏《とぼ》しくして自《おのず》から賤《いや》しき商工の風あり。(貧富を異にす)
第四、上等の士族は衣食に乏《とぼ》しからざるを以て文武の芸を学ぶに余暇《よか》あり。或は経史《けいし》を読み或は兵書を講じ、騎馬《きば》槍剣《そうけん》、いずれもその時代に高尚《こうしょう》と名《なづく》る学芸に従事するが故に、自《おのず》から品行も高尚にして賤《いや》しからず、士君子《しくんし》として風致《ふうち》の観《み》るべきもの多し。下等士族は則《すなわ》ち然《しか》らず。役前《やくまえ》の外《ほか》、馬に乗る者とては一人《ひとり》もなく、内職の傍《かたわら》に少しく武芸《ぶげい》を勉《つと》め、文学は四書五経《ししょごきょう》歟《か》、なお進《すすみ》て蒙求《もうぎゅう》、左伝《さでん》の一、二巻に終る者多し。特にその勉強するところのものは算筆に在《あり》て、この技芸に至《いたっ》ては上等の企《くわだ》て及ぶところに非ず。蓋《けだ》しその由縁《ゆえん》は、下等士族が、やや家産《かさん》の豊《ゆたか》なるを得て、仲間《なかま》の栄誉を取るべき路はただ小吏たるの一事にして、この吏人《りじん》たらんには必ず算筆の技芸を要するが故に、恰《あたか》も毎家《まいか》教育の風を成し、いかなる貧小士族にてもこの技芸を勉《つと》めざる者なし。
今を以て考うれば、算筆の芸もとより賤《いや》しむべきに非ざれども、当時封建士族の世界にこれを賤しむの風なれば、これに従事する者は自《おのず》からその品行も賤しくして、士君子の仲間に歯《よわい》せられざる者のごとし。譬《たと》えば上等士族は習字にも唐様《からよう》を学び、下等士族は御家流《おいえりゅう》を書き、世上一般の気風にてこれを評すれば、字の巧拙《こうせつ》を問わずして御家流をば俗様《ぞくよう》として賤《いや》しみ、これを書く者をも俗吏《ぞくり》俗物《ぞくぶつ》として賤しむの勢《いきおい》を成せり。(教育を異にす)
第五、上士族の内にも小禄の貧者なきに非ざれども、概《がい》してこれを見れば、その活計は入《いる》に心配なくして、ただ出《いずる》の一部に心を用《もちう》るのみ。下士族は出入《しゅつにゅう》共に心に関して身を労する者なれば、その理財の精細《せいさい》なること上士の夢にも知らざるもの多し。二人扶持《ににんぶち》とは一|箇月《かげつ》に玄米《げんまい》三|斗《と》なり。夫婦に三人の子供あれば一日に少なくも白米一升五合より二升は入用なるゆえ、現に一月二、三斗の不足なれども、内職の所得《しょとく》を以て麦《むぎ》を買い粟《あわ》を買い、或《あるい》は粥《かゆ》或は団子《だんご》、様々《さまざま》の趣向《しゅこう》にて食《しょく》を足《た》す。これを通語にて足《た》し扶持《ぶち》という。食物すでに足《た》るも衣服なかるべからず。すなわち家婦《かふ》の任《にん》にして、昼夜の別《べつ》なく糸を紡《つむ》ぎ木綿《もめん》を織り、およそ一婦人、世帯《せたい》の傍《かたわら》に、十日の労《ろう》を以て百五十目の綿を一反の木綿に織上《おりあぐ》れば、三百目の綿に交易《こうえき》すべし。これを方言《ほうげん》にて替引《かえびき》という。
一度《いちど》は綿と交易してつぎの替引の材料となし、一度は銭と交易して世帯の一分《いちぶ》を助け、非常の勉強に非ざれば、この際に一反を余《あま》して私家《しか》の用に供するを得ず。娘の嫁入前《よめいりまえ》に母子《ぼし》ともに忙《いそがわ》しきは、仕度の品を買《かっ》てこれを製するがために非ず、その品を造るがためなり。或《あるい》はこれを買うときは、そのこれを買うの銭《ぜに》を作るがためなり。かかる理財の味《あじ》は、上士族の得て知るところに非ず。この点より論ずれば上士も一種の小華族というて可《か》なり。廃藩の後、士族の所得は大《おおい》に減じて一般の困迫《こんはく》というといえども、もしも今の上士の家禄を以てこれを下士に附与《ふよ》して下士従来の活計を立てしめなば、三、五年の間に必ず富有《ふゆう》を致すことあるべし。(理財活計の趣を異にす)
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廃藩の後、藩士の所得|大《おおい》に減ずるとは、常禄《じょうろく》の高を減じたるをいうに非ず。中津藩にして古来|度々《たびたび》の改革にて藩士の禄を削《けず》り、その割合を古《いにしえ》に比すればすでに大《おおい》に減禄《げんろく》したるがごとくなるを以て、維新の後にも諸藩同様に更に減少の説を唱《とな》えがたき意味もあり、かつ当時流行の有志者が藩政を専《もっぱら》にすることなくして、その内実は禄を重んずるの種族が禄制を適宜《てきぎ》にしたるが故《ゆえ》に、諸藩に普通なる家禄平均の災《わざわい》を免《まぬ》がれたるなり。然《しか》りといえども常禄の外に所得の減じたるものもまた甚《はなは》だ大なり。中津藩歳入の正味《しょうみ》はおよそ米にして五万石余、このうち藩士の常禄として渡すものは二万石余に過ぎずして、残《のこり》およそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供するものなり。
この公用とは所謂《いわゆる》公儀《こうぎ》(幕府のことなり)の御勤《おつとめ》、江戸|藩邸《はんてい》の諸入費、藩債《はんさい》の利子、国邑《こくゆう》にては武備《ぶび》城普請《しろぶしん》、在方《ざいかた》の橋梁《きょうりょう》、堤防《ていぼう》、貧民《ひんみん》の救済手当、藩士文武の引立《ひきたて》等、これなり。名は藩士の所得に関係なきがごとくなれどもその実《じつ》は然らず。譬《たと》えば江戸|汐留《しおどめ》の藩邸を上|屋舗《やしき》と唱《とな》え、広さ一万坪余、周囲およそ五百|間《けん》もあらん。類焼《るいしょう》の跡にてその灰を掻《か》き、仮《かり》に松板を以て高さ二間|許《ばか》りに五百間の外囲《そとがこい》をなすに、天保《てんぽう》時代の金にておよそ三千両なりという。この他、平日にても普請《ふしん》といい買物といい、また払物《はらいもの》といい、経済の不始末《ふしまつ》は諸藩同様、枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。もとより江戸の町人職人の金儲《かねもうけ》なれども、その一部分は間接に藩中一般の賑《にぎわい》たらざるを得ず。また国邑《こくゆう》にて文武の引立《ひきたて》といえば、藩士の面々《めんめん》は書籍《しょじゃく》も拝借《はいしゃく》、馬も鉄砲も拝借なり。借用の品を用いて無月謝の教師に就《つ》く、これまた大なる便利なり。なかんずく役人の旅費ならびに藩士一般に無利足《むりそく》拝借金|歟《か》、または下《く》だされ切りのごときは、現に常禄の外に直接の所得というべし。また藩の諸役所にて公然たる賄賂《わいろ》の沙汰《さた》は稀《まれ》なれども、自《おのず》から役徳《やくとく》なるものあり。江戸大阪の勤番より携《たずさえ》帰《かえ》る土産《みやげ》の品は、旅費の残《のこり》にあらざれば所謂《いわゆる》役徳を積《つみ》たるものより外ならず。
俗官《ぞっかん》汚吏《おり》はしばらく擱《さしお》き、品行正雅の士といえども、この徳沢《とくたく》の範囲《はんい》を脱せんとするも、実際においてほとんど能《よく》すべからざることなり。藩にて廉潔《れんけつ》の役人と称し、賄賂《わいろ》役徳をば一切取らずとて、人もこれを信じ自《みず》からこれを許す者あれども、町人がこの役人へ安利《やすり》にて金を貸し、または態《わざ》と高利《こうり》にてその金を預り、または元値《もとね》を損して安物を売る等、様々《さまざま》の手段を用いてこれに近づくときは、役人は知らず識《し》らずして賄賂《わいろ》の甘き穽《わな》に陥《おちい》らざるを得ず。蓋《けだ》し人として理財商売の考あらざれば、到底《とうてい》その品行を全《まっと》うすること能わざるものなり。以上|枚挙《まいきょ》の件々はいずれも皆《みな》藩士常禄の他《ほか》に得るところのものなれども、今日《こんにち》に至《いたり》てはかかる無名間接の利益あることなし。藩士の困迫《こんぱく》する一の原因なり。
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第六、上士族は大抵《たいてい》婢僕《ひぼく》を使用す。たといこれなきも、主人は勿論《もちろん》、子弟たりとも、自《みず》から町に行《ゆき》て物を買う者なし。町の銭湯《せんとう》に入《い》る者なし。戸外に出《いず》れば袴《はかま》を着《つ》けて双刀を帯《たい》す。夜行は必ず提灯《ちょうちん》を携《たずさ》え、甚《はなはだ》しきは月夜にもこれを携《たずさう》る者あり。なお古風なるは、婦女子《ふじょし》の夜行に重大なる箱提灯《はこちょうちん》を僕《ぼく》に持たする者もあり。外に出《い》でて物を買うを賤《いや》しむがごとく、物を持つもまた不外聞《ふがいぶん》と思い、剣術道具釣竿の外は、些細《ささい》の風呂敷包《ふろしきづつみ》にても手に携うることなし。
下士はよき役を勤《つとめ》て兼《かね》て家族の多勢《たぜい》なる家に非ざれば、婢僕《ひぼく》を使わず。昼間《ひるま》は町に出《い》でて物を買う者少なけれども、夜は男女の別《べつ》なく町に出《いず》るを常とす。男子は手拭《てぬぐい》を以て頬冠《ほおかむ》りし、双刀を帯《たい》する者あり、或は一刀なる者あり。或は昼にても、近処《きんじょ》の歩行なれば双刀は帯《たい》すれども袴《はかま》を着《つ》けず、隣家の往来などには丸腰《まるごし》[#ここから割り注]無刀のこと[#ここで割り注終わり]なるもあり。また宴席、酒|酣《たけなわ》なるときなどにも、上士が拳《けん》を打ち歌舞《かぶ》するは極て稀《まれ》なれども、下士は各《おのおの》隠し芸なるものを奏して興《きょう》を助《たすく》る者多し。これを概《がい》するに、上士の風は正雅《せいが》にして迂闊《うかつ》、下士の風は俚賤《りせん》にして活溌《かっぱつ》なる者というべし。その風俗を異《こと》にするの証は、言語のなまりまでも相同じからざるものあり。今、旧中津藩地士農商の言語なまりの一、二を示すこと左のごとし。
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上士 下士 商 農
見て呉れよと みちくれい みちくりい みてくりい みちぇくりい
いうことを
行けよという いきなさい いきなはい 下士に同じ 下士に同じ
ことを 又いきない 又いきなはりい
如何《いかが》せんかと どをしよをか どをしゆうか どげいしゆうか 商に同じ
いうことを 又どをしゆうか
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この外《ほか》、筆にも記《しる》しがたき語風の異同は枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。故に隔壁《かくへき》にても人の対話を聞けば、その上士たり、下士たり、商たり、農たるの区別は明《あきらか》に知るべし。(風俗を異にす)
右条々のごとく、上下両等の士族は、権利を異《こと》にし、骨肉の縁を異にし、貧富《ひんぷ》を異にし、教育を異にし、理財《りざい》活計《かっけい》の趣《おもむき》を異にし、風俗《ふうぞく》習慣《しゅうかん》を異にする者なれば、自《おのず》からまたその栄誉の所在《しょざい》も異なり、利害の所関《しょかん》も異ならざるを得ず。栄誉《えいよ》利害《りがい》を異にすれば、また従《したがっ》て同情|相憐《あいあわれ》むの念《ねん》も互《たがい》に厚薄《こうはく》なきを得ず。譬《たと》えば、上等の士族が偶然会話の語次《ごじ》にも、以下の者共には言われぬことなれどもこの事《こと》は云々《しかじか》、ということあり。下等士族もまた給人分《きゅうにんぶん》の輩《はい》は知らぬことなれども彼《か》の一条は云々、とて、互に竊《ひそか》に疑うこともあり憤《いきどお》ることもありて、多年|苦々《にがにが
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