のことに至らば如何。かくのごときはすなわち日本国中の人民、身みずからその身を制するの権義なくしてかえって他人を制するの権あり。
 人の身と心とはまったくその居処を別にして、その身はあたかも他人の魂を止むる旅宿のごとし。下戸《げこ》の身に上戸の魂を入れ、子供の身に老人の魂を止め、盗賊の魂は孔夫子の身を借用し、猟師の魂は釈迦の身に旅宿し、下戸が酒を酌《く》んで愉快を尽くせば、上戸は砂糖湯を飲んで満足を唱え、老人が樹に攀《よ》じて戯るれば、子供は杖をついて人の世話をやき、孔夫子が門人を率いて賊をなせば、釈迦如来は鉄砲を携えて殺生《せっしょう》に行くならん。奇なり、妙なり、また不可思議なり。
 これを天理人情と言わんか、これを文明開化と言わんか。三歳の童子にてもその返答は容易なるべし。数千百年の古《いにしえ》より和漢の学者先生が、上下貴賤の名分とて喧《やかま》しく言いしも、つまるところは他人の魂をわが身に入れんとするの趣向ならん。これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭《さと》し、末世の今日に至りてはその功徳もようやく顕われ、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、学者先生も得意の色をな
前へ 次へ
全187ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング