文明の事物|悉皆《しっかい》人民の気力を増すの具となり、一事一物も国の独立を助けざるものなし。その事情まさしくわが国の有様に相反すと言うも可なり。
 今わが国においてかのミッヅル・カラッスの地位に居《お》り、文明を首唱して国の独立を維持すべき者はただ一種の学者のみなれども、この学者なるもの時勢につき眼を着すること高からざるか、あるいは国を患《うれ》うること身を患うるがごとく切ならざるか、あるいは世の気風に酔いひたすら政府に依頼して事をなすべきものと思うか、おおむね皆その地位に安んぜずして去りて官途に赴き、些末の事務に奔走していたずらに身心を労し、その挙動笑うべきもの多しといえども、みずからこれを甘んじ、人もまたこれを怪しまず、はなはだしきは「野《や》に遺賢なし」と言いてこれを悦ぶ者あり。もとより時勢の然らしむるところにて、その罪一個の人にあらずといえども、国の文明のためには一大災難と言うべし。文明を養いなすべき任に当たりたる学者にして、その精神の日に衰うるを傍観してこれを患うる者なきは、実に長大息すべきなり、また痛哭《つうこく》すべきなり。
 ひとりわが慶応義塾の社中はわずかにこの災難
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