も差しつかえなくして、細く永く長久の策に心配し、とにもかくにも一軒の家を守る者あれば、みずから独立の活計を得たりとて得意の色をなし、世の人もこれを目して不覊《ふき》独立の人物と言い、過分の働きをなしたる手柄もののように称すれども、その実は大なる間違いならずや。この人はただ蟻の門人と言うべきのみ。生涯の事業は蟻の右に出《い》ずるを得ず。その衣食を求め家を作るの際に当たりては、額に汗を流せしこともあらん、胸に心配せしこともあらん、古人の教えに対して恥ずることなしといえども、その成功を見れば万物の霊たる人の目的を達したる者と言うべからず。
 右のごとく一身の衣食住を得てこれに満足すべきものとせば、人間の渡世はただ生まれて死するのみ、その死するときの有様は生まれしときの有様に異ならず。かくのごとくして子孫相伝えなば、幾百代を経《ふ》るも一村の有様は旧《もと》の一村にして、世上に公の工業を起こす者なく、船をも造らず、橋をも架せず、一身一家の外は悉皆《しっかい》天然に任せて、その土地に人間生々の痕跡を遺《のこ》すことなかるべし。西人言えることあり、「世の人みなみずから満足するを知りて小安に安んぜなば、今日の世界は開闢《かいびゃく》のときの世界にも異なることなかるべし」と。このことまことに然り。もとより満足に二様の区別ありてその界《さかい》を誤るべからず。一を得てまた二を欲し、したがって足ればしたがって不足を覚え、ついに飽くことを知らざるものはこれを欲と名づけ、あるいは野心と称すべしといえども、わが心身の働きを拡《おしひろ》めて達すべきの目的を達せざるものはこれを蠢愚《しゅんぐ》と言うべきなり。
 第二 人の性は群居を好み、けっして独歩孤立するを得ず。夫婦親子にてはいまだこの性情を満足せしむるに足らず、必ずしも広く他人に交わり、その交わりいよいよ広ければ一身の幸福いよいよ大なるを覚ゆるものにて、すなわちこれ人間交際の起こる所以なり。すでに世間に居《い》てその交際中の一人となれば、またしたがってその義務なかるべからず。およそ世に学問と言い、工業と言い、政治と言い、法律と言うも、みな人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざればいずれも不用のものたるべし。
 政府なんの所以をもって法律を設くるや、悪人を防ぎ善人を保護し、もって人間の交際を全からしめんがためなり。学者なんの所以をもって書を著述し、人を教育するや。後進の智見を導きて、もって人間の交際を保たんがためなり。往古或る支那人の言に、「天下を治むること肉を分かつがごとく公平ならん」と言い、「また庭前の草を除くよりも天下を掃除せん」と言いしも、みな人間交際のために益をなさんとするの志を述べたるものにて、およそ何人《なんびと》にてもいささか身に所得あればこれによりて世の益をなさんと欲するは人情の常なり。あるいは自分には世のためにするの意なきも、知らず識《し》らずして後世、子孫みずからその功徳を蒙《こうむ》ることあり。人にこの性情あればこそ人間交際の義務を達し得るなり。
 古《いにしえ》より世にかかる人物なかりせば、わが輩今日に生まれて今の世界中にある文明の徳沢を蒙るを得ざるべし。親の身代を譲り受くればこれを遺物と名づくといえども、この遺物はわずかに地面、家財等のみにて、これを失えば失うて跡《あと》なかるべし。世の文明はすなわち然らず。世界中の古人を一体にみなし、この一体の古人より今の世界中の人なるわが輩へ譲り渡したる遺物なれば、その洪大なること地面、家財の類にあらず。されども今、誰に向かいて現にこの恩を謝すべき相手を見ず。これを譬《たと》えば人生に必要なる日光、空気を得るに銭を須《もち》いざるがごとし。その物は貴しといえども、所持の主人あらず。ただこれを古人の陰徳恩賜と言うべきのみ。
 開闢のはじめには人智いまだ開けず。その有様を形容すれば、あたかも初生の小児にいまだ智識の発生を見ざるもののごとし。譬えば麦を作りてこれを粉にするには、天然の石と石とをもってこれを搗《つ》き砕きしことならん。その後或る人の工夫にて二つの石を円《まる》く平たき形に作り、その中心に小さき孔《あな》を掘りて、一つの石の孔に木か金の心棒をさし、この石を下に据えてその上に一つの石を重ね、下の石の心棒を上の石の孔にはめ、この石と石との間に麦を入れて上の石を回し、その石の重さにて麦を粉にする趣向を設けたることならん。すなわちこれ挽碓《ひきうす》なり。古はこの挽碓を人の手にて回すことなりしが、後世に至りては碓の形をもしだいに改め、あるいはこれを水車、風車に仕掛け、あるいは蒸気の力を用うることとなりて、しだいに便利を増したるなり。
 何事もこのとおりにて、世の中の有様はしだいに進み、昨日便利とせしものも今日は迂遠《うえん》となり
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