もなき子を生きながら穴に埋めんとするその心は、鬼とも言うべし、蛇《じゃ》とも言うべし、天理人情を害するの極度と言うべし。最前は不孝に三つありとて、子を生まざるをさえ大不孝と言いながら、今ここにはすでに生まれたる子を穴に埋めて後を絶たんとせり。いずれをもって孝行とするか、前後不都合なる妄説ならずや。畢竟、この孝行の説も、親子の名を糺《ただ》し上下の分を明らかにせんとして、無理に子を責むるものならん。そのこれを責むる箇条を聞けば、「妊娠中に母を苦しめ、生まれて後は三年父母の懐《ふところ》を免れず、その洪恩《こうおん》は如何《いかん》」と言えり。されども子を生みて子を養うは人類のみにあらず、禽獣みな然り。ただ人の父母の禽獣に異なるところは、子に衣食を与うるのほかに、これを教育して人間交際の道を知らしむるの一事にあるのみ。
しかるに世間の父母たる者、よく子を生めども子を教うるの道を知らず、身は放蕩無頼を事として子弟に悪例を示し、家を汚し産を破りて貧困に陥り、気力ようやく衰えて家産すでに尽くるに至れば放蕩変じて頑愚となり、すなわちその子に向かいて孝行を責むるとは、はたしてなんの心ぞや。なんの鉄面皮あればこの破廉恥のはなはだしきに至るや。父は子の財を貪《むさぼ》らんとし、姑《しゅうとめ》は嫁の心を悩ましめ、父母の心をもって子供夫婦の身を制し、父母の不理屈は尤《もっと》もにして子供の申し分は少しも立たず、嫁はあたかも餓鬼の地獄に落ちたるがごとく、起居眠食、自由なるものなし。一も舅姑の意に戻《もと》ればすなわちこれを不孝者と称し、世間の人もこれを見て心に無理とは思いながら、己が身に引き受けざることなればまず親の不理屈に左袒《さたん》して理不尽にその子を咎むるか、あるいは通人の説に従えば、理非を分かたず親を欺けとて偽計を授くる者あり。豈これを人間家内の道と言うべけんや。余かつて言えることあり。「姑の鑑《かがみ》遠からず嫁の時にあり」と。姑もし嫁を窘《くる》しめんと欲せば、己がかつて嫁たりし時を想うべきなり。
右は上下貴賤の名分より生じたる悪弊にて、夫婦親子の二例を示したるなり。世間にこの悪弊の行なわるるははなはだ広く、事々物々、人間の交際に浸潤せざるはなし。なおその例は次編に記すべし。
[#改段]
九編
学問の旨を二様に記して
中津の旧友に贈る文
人の心身の働きを細かに見れば、これを分かちて二様に区別すべし。第一は一人たる身につきての働きなり。第二は人間交際の仲間に居《お》り、その交際の身につきての働きなり。
第一 心身の働きをもって衣食住の安楽を致すもの、これを一人の身につきての働きと言う。然りといえども天地間の万物、一として人の便利たらざるものなし。一粒の種を蒔《ま》けば二、三百倍の実を生じ、深山の樹木は培養せざるもよく成長し、風はもって車を動かすべし、海はもって運送の便をなすべし、山の石炭を掘り、河海の水を汲み、火を点じて蒸気を造れば重大なる舟車を自由に進退すべし。このほか造化の妙工を計れば枚挙に遑《いとま》あらず。人はただこの造化の妙工を藉《か》り、わずかにその趣を変じてもってみずから利するなり。ゆえに人間の衣食住を得《う》るは、すでに造化の手をもって九十九|分《ぶ》の調理を成したるものへ、人力にて一分を加うるのみのことなれば、人はこの衣食住を造ると言うべからず、その実は路傍に棄《す》てたるものを拾い取るがごときのみ。
ゆえに人としてみずから衣食住を給するは難《かた》きことにあらず。この事を成せばとて、あえて誇るべきにあらず。もとより独立の活計は人間の一大事、「汝の額の汗をもって汝の食《めし》を食《く》らえ」とは古人の教えなれども、余が考えには、この教えの趣旨を達したればとていまだ人たるものの務めを終われりとするに足らず。この教えはわずかに人をして禽獣に劣ることなからしむるのみ。試みに見よ。禽獣《きんじゅう》魚虫、みずから食を得ざるものなし。ただにこれを得て一時の満足を取るのみならず、蟻《あり》のごときははるかに未来を図り、穴を掘りて居処を作り、冬日の用意に食料を貯《たくわ》うるにあらずや。
しかるに世の中にはこの蟻の所業をもってみずから満足する人あり。今その一例を挙げん。男子年長じて、あるいは工につき、あるいは商に帰し、あるいは官員となりて、ようやく親類朋友の厄介たるを免れ、相応に衣食して他人へ不義理の沙汰もなく、借屋にあらざれば自分にて手軽に家を作り、家什《かじゅう》はいまだ整わずとも細君だけはまずとりあえずとて、望みのとおりに若き婦人を娶《めと》り、身の治まりもつきて倹約を守り、子供は沢山に生まれたれども教育もひととおりのことなればさしたる銭もいらず、不時病気等の入用に三十円か五十円の金にはいつ
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