もその学力は当塾の生徒を教うるため十分なるゆえ、太田氏の願いのとおりに命ぜられたく、あるいは語学の教師と申し立てなば願いも済むべきなれども、もとよりわが生徒は文学・科学を学ぶつもりなれば、語学と偽り官を欺《あざむ》くことはあえてせざるところなり」と出願したりしかども、文部省の規則変ずべからざる由にて、諭吉の願書もまた返却したり。これがためすでに内約の整いし教師を雇い入るるを得ず、去年十二月下旬、本人は去りて米国へ帰り、太田君の素志も一時の水の泡となり、数百の生徒も望みを失い、実に一私塾の不幸のみならず、天下文学のためにも大なる妨げにて、馬鹿らしく苦々しきことなれども、国法の貴重なる、これを如何《いかん》ともすべからず、いずれ近日また重ねて出願のつもりなり。今般の一条につきては、太田氏をはじめ社中集会してその内話に、「かの文部省にて定めたる私塾教師の規則もいわゆる御大法なれば、ただ文学・科学の文字を消して語学の二字に改むれば、願いも済み、生徒のためには大幸ならん」と再三商議したれども、結局のところ、このたびの教師を得ずして社中生徒の学業あるいは退歩することあるも、官を欺くは士君子の恥ずべきところなれば、謹んで法を守り国民たるの分を誤らざるの方、上策なるべしとて、ついにこの始末に及びしことなり。もとより一私塾の処置にてこのこと些末に似たれども、議論の趣意は世教にも関わるべきことと思い、ついでながらこれを巻末に記すのみ。
[#改段]
七編
国民の職分を論ず
第六編に国法の貴きを論じ、「国民たる者は一人にて二人前の役目を勤むるものなり」と言えり。今またこの役目職分の事につき、なおその詳《つまび》らかなるを説きて六編の補遺となすこと左のごとし。
およそ国民たる者は一人の身にして二ヵ条の勤めあり。その一の勤めは政府の下に立つ一人の民たるところにてこれを論ず、すなわち客のつもりなり。その二の勤めは国中の人民申し合わせて、一国と名づくる会社を結び、社の法を立ててこれを施し行なうことなり、すなわち主人のつもりなり。譬《たと》えばここに百人の町人ありてなんとかいう商社を結び、社中相談のうえにて社の法を立て、これを施し行なうところを見れば、百人の人はその商社の主人なり。すでにこの法を定めて、社中の人いずれもこれに従い違背せざるところを見れば、百人の人は商社の客なり。ゆえに一国はなお商社のごとく、人民はなお社中の人のごとく、一人にて主客二様の職を勤むべき者なり。
第一 客の身分をもって論ずれば、一国の人民は国法を重んじ人間同等の趣意を忘るべからず。他人の来たりてわが権義を害するを欲せざれば、われもまた他人の権義を妨《さまた》ぐべからず。わが楽しむところのものは他人もまたこれを楽しむがゆえに、他人の楽しみを奪いてわが楽しみを増すべからず、他人の物を盗んでわが富となすべからず、人を殺すべからず、人を讒《ざん》すべからず、まさしく国法を守りて彼我《ひが》同等の大義に従うべし。また国の政体によりて定まりし法は、たといあるいは愚かなるも、あるいは不便なるも、みだりにこれを破るの理なし。師《いくさ》を起こすも外国と条約を結ぶも政府の権にあることにて、この権はもと約束にて人民より政府へ与えたるものなれば、政府の政に関係なき者はけっしてそのことを評議すべからず。
人民もしこの趣意を忘れて、政府の処置につきわが意に叶《かな》わずとて恣《ほしいまま》に議論を起こし、あるいは条約を破らんとし、あるいは師《いくさ》を起こさんとし、はなはだしきは一騎先駆け、自刃を携えて飛び出すなどの挙動に及ぶことあらば、国の政《まつりごと》は一日も保つべからず。これを譬えばかの百人の商社兼ねて申し合せのうえ、社中の人物十人を選んで会社の支配人と定め置き、その支配人の処置につき、残り九十人の者どもわが意に叶《かな》わずとて銘々に商法を議し、支配人は酒を売らんとすれば九十人の者は牡丹餅《ぼたもち》を仕入れんとし、その評議区々にて、はなはだしきは一了簡をもって私に牡丹餅の取引きを始め、商社の法に背きて他人と争論に及ぶなどのことあらば、会社の商売は一日も行なわるべからず。ついにその商社の分散するに至らば、その損亡《そんもう》は商社百人一様の引受けなるべし。愚もまたはなはだしきものと言うべし。ゆえに国法は不正不便なりといえども、その不正不便を口実に設けてこれを破るの理なし。もし事実において不正不便の箇条あらば、一国の支配人たる政府に説き勧めて静かにその法を改めしむべし。政府もしわが説に従わずんば、かつ力を尽くしかつ堪忍して時節を待つべきなり。
第二 主人の身分をもって論ずれば、一国の人民はすなわち政府なり。そのゆえは一国中の人民|悉皆《しっかい》政をなすべきものにあらざれば
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