、政府なるものを設けてこれに国政を任せ、人民の名代として事務を取り扱わしむべしとの約束を定めたればなり。ゆえに人民は家元なり、また主人なり。政府は名代人なり、また支配人なり。譬えば商社百人のうちより選ばれたる十人の支配人は政府にて、残り九十人の社中は人民なるがごとし。この九十人の社中は自分にて事務を取り扱うことなしといえども、己《おの》が代人として十人の者へ事を任せたるゆえ、己れの身分を尋ぬればこれを商社の主人と言わざるを得ず。またかの十人の支配人は現在の事を取り扱うといえども、もと社中の頼みを受けその意に従いて事をなすべしと約束したる者なれば、その実は私にあらず、商社の公務を勤むる者なり。いま世間にて政府に関わることを公務と言い公用と言うも、その字のよって来たるところを尋ぬれば、政府の事は役人の私事にあらず、国民の名代となりて一国を支配する公の事務という義なり。
右の次第をもって、政府たるものは人民の委任を引き受け、その約束に従いて一国の人をして貴賤《きせん》上下の別なくいずれもその権義を逞しゅうせしめざるべからず、法を正しゅうし罰を厳にして一点の私曲あるべからず。今ここに一群の賊徒来たりて人の家に乱入するとき、政府これを見てこれを制すること能《あた》わざれば政府もその賊の徒党と言いて可なり。政府もし国法の趣意を達すること能わずして人民に損亡を蒙らしむることあらば、その高《たか》の多少を論ぜずその事の新旧を問わず、必ずこれを償《つぐな》わざるべからず。譬えば役人の不行届きにて国内の人か、または外国人へ損亡をかけ、三万円の償金を払うことあらん。政府にはもとより金のあるべき理なければ、その償金の出ずるところはかならず人民なり。この三万円を日本国中およそ三千万人の人口に割り付くれば、一人前十文ずつに当たる。役人の不行届き十度を重ぬれば、人民の出金一人前百文に当たり、家内五人の家なれば五百文なり。田舎の小百姓に五百文の銭あれば、妻子打ち寄り、山家相応の馳走を設けて一夕の愉快を尽くすべきはずなるに、ただ役人の不行届きのみにより、全日本国中|無辜《むこ》の小民をしてその無上の歓楽を失わしむるは実に気の毒の至りならずや。人民の身としてはかかる馬鹿らしき金を出だすべき理なきに似たれども、如何《いかん》せん、その人民は国の家元主人にて、最初より政府へこの国を任せて事務を取り扱わしむるの約束をなし、損得ともに家元にて引き受くべきはずのものなれば、ただ金を失いしときのみに当たりて、役人の不調法をかれこれと議論すべからず。ゆえに人民たる者は平生よりよく心を用い、政府の処置を見て不安心と思うことあらば、深切にこれを告げ、遠慮なく穏やかに論ずべきなり。
人民はすでに一国の家元にて、国を護るための入用を払うはもとよりその職分なれば、この入用を出だすにつきけっして不平の顔色を見《あら》わすべからず。国を護るためには役人の給料なかるべからず、海陸の軍費なかるべからず、裁判所の入用もあり、地方官の入用もあり、その高を集めてこれを見れば大金のように思わるれども、一人前の頭に割り付けてなにほどなるや。日本にて歳入の高を全国の人口に割り付けなば、一人前に一円か二円なるべし。一年の間にわずか一、二円の金を払うて政府の保護を被り、夜盗押込みの患いもなく、ひとり旅行に山賊の恐れもなくして、安穏にこの世を渡るは大なる便利ならずや。およそ世の中に割合よき商売ありといえども、運上を払うて政府の保護を買うほど安きものはなかるべし。世上の有様を見るに、普請に金を費やす者あり、美服美食に力を尽くす者あり、はなはだしきは酒色のために銭を棄てて身代を傾くる者もあり、これらの費えをもって運上の高に比較しなば、もとより同日の話にあらず、不筋の金なればこそ一銭をも惜しむべけれども、道理において出だすべきはずのみならず、これを出だして安きものを買うべき銭なれば、思案にも及ばず快く運上を払うべきなり。
右のごとく人民も政府もおのおのその分限を尽くして互いに居《お》り合うときは申し分もなきことなれども、あるいは然らずして政府なるものその分限を越えて暴政を行なうことあり。ここに至りて人民の分としてなすべき挙動はただ三ヵ条あるのみ。すなわち節を屈して政府に従うか、力をもって政府に敵対するか、正理を守りて身を棄つるか、この三ヵ条なり。
第一 節を屈して政府に従うははなはだよろしからず。人たる者は天の正道に従うをもって職分とす。しかるにその節を屈して政府人造の悪法に従うは、人たるの職分を破るものと言うべし。かつひとたび節を屈して不正の法に従うときは、後世子孫に悪例を遺《のこ》して天下一般の弊風を醸《かも》しなすべし。古来日本にても愚民の上に暴政府ありて、政府虚威を逞しゅうすれば人民はこれに震い恐れ、
前へ
次へ
全47ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング