より公に私裁を許したるものなり。けしからぬことならずや。すべて一国の法はただ一政府にて施行すべきものにて、その法の出ずるところいよいよ多ければその権力もまたしたがっていよいよ弱し。譬《たと》えば封建の世に三百の諸侯おのおの生殺の権ありし時は、政府の力もその割合にて弱かりしはずなり。
私裁のもっともはなはだしくして、政《まつりごと》を害するのもっとも大なるものは暗殺なり。古来暗殺の事跡を見るに、あるいは私怨《しえん》のためにする者あり、あるいは銭を奪わんがためにする者あり。この類の暗殺を企つるものはもとより罪を犯す覚悟にて、自分にも罪人のつもりなれども、別にまた一種の暗殺あり。この暗殺は私のためにあらず、いわゆるポリチカル・エネミ〔政敵〕を悪《にく》んでこれを殺すものなり。天下の事につき銘々の見込みを異にし、私の見込みをもって他人の罪を裁決し、政府の権を犯して恣《ほしいまま》に人を殺し、これを恥じざるのみならずかえって得意の色をなし、みずから天誅《てんちゅう》を行なうと唱うれば、人またこれを称して報国の士と言う者あり。そもそも天誅とは何事なるや。天に代わりて誅罰を行なうというつもりか。もしそのつもりならば、まず自分の身の有様を考えざるべからず。元来この国に居《お》り、政府へ対していかなる約定を結びしや。「必ずその国法を守りて身の保護を被《こうむ》るべし」とこそ約束したることなるべし。もし国の政事につき不平の箇条を見いだし、国を害する人物ありと思わば、静かにこれを政府へ訴うべきはずなるに、政府を差し置き、みずから天に代わりて事をなすとは商売違いもまたはなはだしきものと言うべし。畢竟《ひっきょう》この類の人は、性質律儀なれども物事の理に暗く、国を患《うれ》うるを知りて国を患うる所以《ゆえん》の道を知らざる者なり。試みに見よ、天下古今の実験に、暗殺をもってよく事をなし世間の幸福を増したるものは、いまだかつてこれあらざるなり。
国法の貴きを知らざる者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前をほどよくして、表向きに犯罪の名あらざれば内実の罪を犯すもこれを恥とせず。ただにこれを恥じざるのみならず、巧みに法を破りて罪を遁《のが》るる者あればかえってこれをその人の働きとしてよき評判を得ることあり。今、世間日常の話に、此《これ》も上の御大法なり、彼《かれ》も政府の表向きなれども、この事を行なうにかく私に取り計らえば、表向きの御大法には差しつかえもあらず、表向きの内証などとて笑いながら談話して咎《とが》むるものもなく、はなはだしきは小役人と相談のうえ、この内証事を取り計らい、双方ともに便利を得て罪なき者のごとし。実はかの御大法なるもの、あまり煩《わずら》わしきに過ぎて事実に施すべからざるよりして、この内証事も行なわるることなるべしといえども、一国の政治をもってこれを論ずれば、もっとも恐るべき悪弊なり。かく国法を軽蔑するの風に慣れ、人民一般に不誠実の気を生じ、守りて便利なるべき法をも守らずして、ついには罪を蒙ることあり。
譬えば今往来に小便するは政府の禁制なり。しかるに人民みなこの禁令の貴きを知らずしてただ邏卒《らそつ》を恐るるのみ。あるいは日暮れなど邏卒のあらざるを窺《うかが》いて法を破らんとし、はからずも見咎めらるることあればその罪に伏すといえども、本人の心中には貴き国法を犯したるがゆえに罰せらるるとは思わずして、ただ恐ろしき邏卒に逢いしをその日の不幸と思うのみ。実に歎かわしきことならずや。ゆえに政府にて法を立つるは勉《つと》めて簡なるを良とす。すでにこれを定めて法となすうえは必ず厳にその趣意を達せざるべからず。人民は政府の定めたる法を見て不便なりと思うことあらば、遠慮なくこれを論じて訴うべし。すでにこれを認めてその法の下に居るときは、私にその法を是非することなく謹んでこれを守らざるべからず。
近くは先月わが慶応義塾にも一事あり。華族|太田資美《おおたすけよし》君、一昨年より私金を投じて米国人を雇い、義塾の教員に供えしが、このたび交代の期限に至り、他の米人を雇い入れんとして、当人との内談すでに整いしにつき、太田氏より東京府へ書面を出だしこの米人を義塾に入れて文学・科学の教師に供えんとの趣を出願せしところ、文部省の規則に、「私金をもって私塾の教師を雇い、私に人を教育するものにても、その教師なる者、本国にて学科卒業の免状を得てこれを所持するものにあらざれば雇入れを許さず」との箇条あり。しかるにこのたび雇い入れんとする米人、かの免状を所持せざるにつき、ただ語学の教師とあればともかくもなれども、文学・科学の教師としては願いの趣、聞き届け難き旨《むね》、東京府より太田氏へ御沙汰なり。
よって福沢諭吉より同府へ書を呈し、「この教師なる者、免状を所持せざる
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