むを得ず家内申し合わせて私にこれを防ぎ、当座の取り計らいにてこの強盗を捕え置き、しかる後に政府へ訴え出ずるなり。これを捕うるにつきては、あるいは棒を用い、あるいは刃物を用い、あるいは賊の身に疵《きず》つくることもあるべし、あるいはその足を打ち折ることもあるべし、事急なるときは鉄砲をもって打ち殺すこともあるべしといえども、結局主人たる者は、わが生命を護り、わが家財を守るために一時の取り計らいをなしたるのみにて、けっして賊の無礼を咎《とが》め、その罪を罰するの趣意にあらず。
罪人を罰するは政府に限りたる権なり、私の職分にあらず。ゆえに私の力にてすでにこの強盗を取り押え、わが手に入りしうえは、平人の身としてこれを殺しこれを打擲《ちょうちゃく》すべからざるはもちろん、指一本を賊の身に加うることをも許さず、ただ政府に告げて政府の裁判を待つのみ。もしも賊を取り押えしうえにて、怒りに乗じてこれを殺し、これを打擲することあれば、その罪は無罪の人を殺し、無罪の人を打擲するに異ならず。譬えば某国の律に、「金十円を盗む者はその刑、笞《むち》一百、また足をもって人の面を蹴《け》る者もその刑、笞一百」とあり。しかるにここに盗賊ありて、人の家に入り金十円を盗み得て出でんとするとき、主人に取り押えられ、すでに縛られしうえにて、その主人なおも怒りに乗じ足をもって賊の面を蹴ることあらん、しかるときその国の律をもってこれを論ずれば、賊は金十円を盗みし罪にて一百の笞を被り、主人もまた平人の身をもって私に賊の罪を裁決し足をもってその面を蹴りたる罪により笞うたるること一百なるべし。国法の厳なることかくのごとし。人々恐れざるべからず。
右の理をもって考うれば敵討《かたきう》ちのよろしからざることも合点すべし。わが親を殺したる者はすなわちその国にて一人の人を殺したる公の罪人なり。この罪人を捕えて刑に処するは政府に限りたる職分にて、平人の関わるところにあらず。しかるにその殺されたる者の子なればとて、政府に代わりて私にこの公の罪人を殺すの理あらんや。差し出がましき挙動と言うべきのみならず、国民たるの職分を誤り、政府の約束に背くものと言うべし。もしこのことにつき、政府の処置よろしからずして罪人を贔屓《ひいき》するなどのことあらば、その不筋《ふすじ》なる次第を政府に訴うべきのみ。なんらの事故あるもけっしてみずから手を出だすべからず。たとい親の敵は目の前に徘徊《はいかい》するも私にこれを殺すの理なし。
昔、徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討ちとて吉良上野介《きらこうずけのすけ》を殺したることあり。世にこれを赤穂《あこう》の義士と唱えり。大なる間違いならずや。この時日本の政府は徳川なり。浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》も吉良上野介も浅野家の家来もみな日本の国民にて、政府の法に従いその保護を蒙《こうむ》るべしと約束したるものなり。しかるに一朝の間違いにて上野介なる者内匠頭へ無礼を加えしに、内匠頭これを政府に訴うることを知らず、怒りに乗じて私に上野介を切らんとしてついに双方の喧嘩となりしかば、徳川政府の裁判にて内匠頭へ切腹を申しつけ、上野介へは刑を加えず、この一条は実に不正なる裁判というべし。浅野家の家来どもこの裁判を不正なりと思わば、何がゆえにこれを政府へ訴えざるや。四十七士の面々申し合わせて、おのおのその筋により法に従いて政府に訴え出でなば、もとより暴政府のことゆえ、最初はその訴訟を取り上げず、あるいはその人を捕えてこれを殺すこともあるべしといえども、たとい一人は殺さるるもこれを恐れず、また代わりて訴え出で、したがって殺されしたがって訴え、四十七人の家来、理を訴えて命を失い尽くすに至らば、いかなる悪政府にてもついには必ずその理に伏し、上野介へも刑を加えて裁判を正しゅうすることあるべし。
かくありてこそはじめて真の義士とも称すべきはずなるに、かつてこの理を知らず、身は国民の地位にいながら国法の重きを顧みずしてみだりに上野介を殺したるは、国民の職分を誤り、政府の権を犯して、私に人の罪を裁決したるものと言うべし。幸いにしてその時、徳川の政府にてこの乱暴人を刑に処したればこそ無事に治まりたれども、もしもこれを免《ゆる》すことあらば、吉良家の一族また敵討ちとて赤穂の家来を殺すことは必定《ひつじょう》なり。しかるときはこの家来の一族、また敵討ちとて吉良の一族を攻むるならん。敵討ちと敵討ちとにて、はてしもあらず、ついに双方の一族朋友死し尽くるに至らざれば止まず。いわゆる無政無法の世の中とはこのことなるべし。私裁の国を害することかくのごとし。謹《つつし》まざるべからざるなり。
古《いにしえ》は日本にて百姓・町人の輩《はい》、士分の者に対して無礼を加うれば切捨て御免という法あり。こは政府
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