らず。『女大学』の文によれば、亭主は酒を飲み、女郎に耽《ふけ》り、妻をののしり子を叱りて、放蕩淫乱を尽くすも、婦人はこれに従い、この淫夫《いんぷ》を天のごとく敬い尊み、顔色を和らげ、悦ばしき言葉にてこれを意見すべしとのみありて、その先の始末をば記さず。さればこの教えの趣意は、淫夫にても姦夫《かんぷ》にてもすでに己《おの》が夫と約束したるうえは、いかなる恥辱を蒙《こうむ》るもこれに従わざるをえず、ただ心にも思わぬ顔色を作りて諫《いさ》むるの権義あるのみ。その諫めに従うと従わざるとは淫夫の心次第にて、すなわち淫夫の心はこれを天命と思うよりほかに手段あることなし。
仏書に罪業深き女人ということあり。実にこの有様を見れば、女は生まれながら大罪を犯したる科人《とがにん》に異ならず。また一方より婦人を責むることはなはだしく、『女大学』に婦人の七去とて、「淫乱なれば去る」と明らかにその裁判を記せり。男子のためには大いに便利なり。あまり片落ちなる教えならずや。畢竟、男子は強く婦人は弱しというところより、腕の力を本《もと》にして男女上下の名分を立てたる教えなるべし。
右は姦夫淫婦の話なれども、またここに妾《めかけ》の議論あり。世に生まるる男女の数は同様なる理なり。西洋人の実験によれば、男子の生まるることは女子よりも多く、男子二十二人に女子二十人の割合なりと。されば一夫にて二、三の婦人を娶《めと》るはもとより天理に背くこと明白なり。これを禽獣と言うも妨げなし。父をともにし母をともにする者を兄弟と名づけ、父母兄弟ともに住居するところを家と名づく。しかるに今、兄弟、父をともにして母を異にし、一父独立して衆母は群を成せり。これを人類の家と言うべきか。家の字の義を成さず。たといその楼閣は巍々《ぎぎ》たるも、その宮室は美麗なるも、余が眼をもってこれを見れば人の家にあらず、畜類の小屋と言わざるを得ず。妻妾《さいしょう》、家に群居して家内よく熟和するものは、古今いまだその例を聞かず。妾といえども人類の子なり。一時の欲のために人の子を禽獣のごとくに使役し、一家の風俗を乱りて子孫の教育を害し、禍を天下に流して毒を後世に遺《のこ》すもの、豈《あに》これを罪人と言わざるべけんや。
人あるいはいわく、「衆妾を養うもその処置よろしきを得《う》れば人情を害することなし」と。こは夫子みずから言うの言葉なり。も
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