のことに至らば如何。かくのごときはすなわち日本国中の人民、身みずからその身を制するの権義なくしてかえって他人を制するの権あり。
人の身と心とはまったくその居処を別にして、その身はあたかも他人の魂を止むる旅宿のごとし。下戸《げこ》の身に上戸の魂を入れ、子供の身に老人の魂を止め、盗賊の魂は孔夫子の身を借用し、猟師の魂は釈迦の身に旅宿し、下戸が酒を酌《く》んで愉快を尽くせば、上戸は砂糖湯を飲んで満足を唱え、老人が樹に攀《よ》じて戯るれば、子供は杖をついて人の世話をやき、孔夫子が門人を率いて賊をなせば、釈迦如来は鉄砲を携えて殺生《せっしょう》に行くならん。奇なり、妙なり、また不可思議なり。
これを天理人情と言わんか、これを文明開化と言わんか。三歳の童子にてもその返答は容易なるべし。数千百年の古《いにしえ》より和漢の学者先生が、上下貴賤の名分とて喧《やかま》しく言いしも、つまるところは他人の魂をわが身に入れんとするの趣向ならん。これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭《さと》し、末世の今日に至りてはその功徳もようやく顕われ、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、学者先生も得意の色をなし、神代の諸尊、周の世の聖賢も、草葉の蔭にて満足なるべし。いまその功徳の一、二を挙げて示すこと左のごとし。
政府の強大にして小民を制圧するの議論は、前編にも記したるゆえここにはこれを略し、まず人間男女の間をもってこれを言わん。そもそも世に生まれたる者は、男も人なり女も人なり。この世に欠くべからざる用をなすところをもって言えば、天下一日も男なかるべからず、また女なかるべからず。その功能いかにも同様なれども、ただその異なるところは、男は強く女は弱し。大の男の力にて女と闘わば必ずこれに勝つべし。すなわちこれ男女の同じからざるところなり。いま世間を見るに、力ずくにて人の物を奪うか、または人を恥ずかしむる者あれば、これを罪人と名づけて刑にも行なわるることあり。しかるに家の内にては公然と人を恥ずかしめ、かつてこれを咎むる者なきはなんぞや。
『女大学』という書に、「婦人に三従の道あり、稚《おさな》き時は父母に従い、嫁《よめ》いる時は夫に従い、老いては子に従うべし」と言えり。稚き時に父母に従うは尤《もっと》もなれども、嫁いりて後に夫に従うとはいかにしてこれに従うことなるや、その従うさまを問わざるべか
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