求むることなおわが朋友を慕うがごとくなれば、世の交わりは相互いのことなり。ただこの五つの力を用うるに当たり、天より定めたる法に従いて、分限を越えざること緊要なるのみ。すなわちその分限とは、我もこの力を用い、他人もこの力を用いて、相互にその働きを妨げざるを言うなり。かくのごとく、人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎《とが》めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。
右の次第により、人たる者は他人の権義を妨げざれば、自由自在に己《おの》が身体を用うるの理あり。その好むところに行き、その欲するところに止まり、あるいは働き、あるいは遊び、あるいはこの事を行ない、あるいはかの業をなし、あるいは昼夜勉強するも、あるいは意に叶わざれば無為にして終日寝るも、他人に関係なきことなれば、傍《かたわら》よりかれこれとこれを議論するの理なし。
今もし前の説に反し、「人たる者は理非にかかわらず他人の心に従いて事をなすものなり、わが了簡を出だすはよろしからず」という議論を立つる者あらん。この議論はたして理の当然なるか。理の当然ならばおよそ人と名のつきたる者の住居する世界には通用すべきはずなり。仮りにその一例を挙げて言わん。禁裏さまは公方《くぼう》さまよりも貴きものなるゆえ、禁裏さまの心をもって公方さまの身を勝手次第に動かし、行かんとすれば「止《と》まれ」と言い、止まらんとすれば「行け」と言い、寝るも起きるも飲むも食うもわが思いのままに行なわるることなからん。公方さまはまた手下の大名を制し、自分の心をもって大名の身を自由自在に取り扱わん。大名はまた自分の心をもって家老の身を制し、家老は自分の心をもって用人の身を制し、用人は徒士《かち》を制し、徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するならん。
さて百姓に至りてはもはや目下の者もあらざれば少し当惑の次第なれども、元来この議論は人間世界に通用すべき当然の理に基づきたるものなれば、百万遍の道理にて、回れば本《もと》に返らざるを得ず。「百姓も人なり、禁裏さまも人なり、遠慮はなし」と御免を蒙り、百姓の心をもって禁裏さまの身を勝手次第に取り扱い、行幸あらんとすれば「止まれ」と言い、行在《あんざい》に止まらんとすれば「還御《かんぎょ》」と言い、起居眠食、みな百姓の思いのままにて、金衣玉食を廃して麦飯を進むるなど
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