独立の功を成したり。今日においても、西洋の諸大家が日新の説を唱えて人を文明に導くものを見るに、その目的はただ古人の確定して駁《ばく》すべからざるの論説を駁し、世上に普通にして疑いを容るべからざるの習慣に疑いを容るるにあるのみ。
今の人事において男子は外を務め婦人は内を治むるとてその関係ほとんど天然なるがごとくなれども、スチュアルト・ミルは『婦人論』を著わして、万古一定動かすべからざるのこの習慣を破らんことを試みたり。英国の経済家に自由法を悦ぶ者多くして、これを信ずる輩はあたかももって世界普通の定法のごとくに認むれども、アメリカの学者は保護法を唱えて自国一種の経済論を主張する者あり。一議したがって出ずれば一説したがってこれを駁し、異説争論その極《きわ》まるところを知るべからず。これをかのアジヤ諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱《ふこ》神仏に惑溺し、あるいはいわゆる聖賢者の言を聞きて一時にこれに和するのみならず、万世の後に至りてなおその言の範囲を脱すること能わざるものに比すれば、その品行の優劣、心志の勇怯、もとより年を同じゅうして語るべからざるなり。
異説争論の際に事物の真理を求むるは、なお逆風に向かいて舟を行《や》るがごとし。その舟路を右にし、またこれを左にし、浪に激し風に逆らい、数十百里の海を経過するも、その直達《ちょくたつ》の路を計れば、進むことわずかに三、五里に過ぎず。航海にはしばしば順風の便ありといえども、人事においてはけっしてこれなし。人事の進歩して真理に達するの路は、ただ異説争論の際に間切《まぎ》るの一法あるのみ。しこうしてその説論の生ずる源は疑いの一点にありて存するものなり。「疑いの世界に真理多し」とはけだしこの謂《いい》なり。
然りといえども、事物の軽々信ずべからざることはたして是《ぜ》ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明《めい》なかるべからず。けだし学問の要はこの明智を明らかにするにあるものならん。わが日本においても、開国以来とみに人心の趣を変じ、政府を改革し、貴族を倒し、学校を起こし、新聞局を開き、鉄道・電信・兵制・工業等、百般の事物一時に旧套を改めたるは、いずれもみな数千百年以来の習慣に疑いを容れ、これを変革せんことを試みて功を奏したるものと言うべし。
然りといえども、わが人民の精神においてこの数千年の習慣
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