、七百万の内には四千七百あるべし。物|換《か》わり星移り、人情はしだいに薄く、義気も落花の時節となりたるは、世人の常に言うところにて相違もあらず。ゆえに元禄年中より人の義気に三割を減じて七掛けにすれば、七百万につき三千二百九十の割合なり。今、日本の人口を三千万となし義士の数は一万四千百人なるべし。この人数にて日本国を保護するに足るべきや。三歳の童子にも勘定《かんじょう》はできることならん」
右の議論によれば名分は丸つぶれの話なれども、念のためここに一言を足さん。名分とは虚飾の名目を言うなり。虚名とあれば上下貴賤|悉皆《しっかい》無用のものなれども、この虚飾の名目と実の職分とを入れ替えにして、職分をさえ守ればこの名分も差しつかえあることなし。すなわち政府は一国の帳場にして、人民を支配するの職分あり。人民は一国の金主にして、国用を給するの職分あり。文官の職分は政法を議定するにあり。武官の職分は命ずるところに赴きて戦うにあり。このほか、学者にも町人にもおのおの定まりたる職分あらざるはなし。
しかるに半解半知の飛び揚がりものが、名分は無用と聞きて、早くすでにその職分を忘れ、人民の地位にいて政府の法を破り、政府の命をもって人民の産業に手を出だし、兵隊が政《まつりごと》を議してみずから師《いくさ》を起こし、文官が腕の力に負けて武官の指図に任ずる等のことあらば、これこそ国の大乱ならん。自主自由のなま噛《かじ》りにて無政無法の騒動なるべし。名分と職分とは文字こそ相似たれ、その趣意はまったく別物なり。学者これを誤り認むることなかれ。
[#改段]
十二編
演説の法を勧むるの説
演説とは英語にてスピイチと言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にてわが思うところを人に伝うるの法なり。わが国には古《いにしえ》よりその法あるを聞かず、寺院の説法などはまずこの類なるべし。西洋諸国にては演説の法もっとも盛んにして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合《よりあ》いより、冠婚葬祭、開業・開店等の細事に至るまでも、わずかに十数名の人を会することあれば、必ずその会につき、あるいは会したる趣意を述べ、あるいは人々|平生《へいぜい》の持論を吐き、あるいは即席の思い付きを説きて、衆客に披露するの風なり。この法の大切なるはもとより論を俟《ま》たず。譬《たと》えば今、世間にて議院など
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