の説あれども、たとい院を開くも第一に説を述ぶるの法あらざれば、議院もその用をなさざるべし。
 演説をもって事を述ぶれば、その事柄の大切なると否とはしばらく擱《お》き、ただ口上をもって述ぶるの際におのずから味を生ずるものなり。譬えば文章に記《しる》せばさまで意味なきことにても、言葉をもって述ぶればこれを了解すること易《やす》くして人を感ぜしむるものあり。古今に名高き名詩名歌というものもこの類にて、この詩歌を尋常の文に訳すれば絶えておもしろき味もなきがごとくなれども、詩歌の法に従いてその体裁を備うれば、限りなき風致を生じて衆心を感動せしむべし。ゆえに一人の意を衆人に伝うるの速やかなると否とは、そのこれを伝うる方法に関することはなはだ大なり。
 学問はただ読書の一科にあらずとのことは、すでに人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し。在昔《ざいせき》或る朱子学の書生、多年江戸に修業して、その学流につき諸大家の説を写し取り、日夜怠らずして数年の間にその写本数百巻を成し、もはや学問も成業したるがゆえに故郷へ帰るべしとて、その身は東海道を下り、写本は葛籠《つづら》に納めて大回しの船に積み出《い》だせしが、不幸なるかな、遠州|洋《なだ》において難船に及びたり。この災難によりて、かの書生もその身は帰国したれども、学問は悉皆《しっかい》海に流れて心身に付したるものとてはなに一物もあることなく、いわゆる本来無一物にて、その愚はまさしく前日に異なることなかりしという話あり。
 今の洋学者にもまたこの懸念なきにあらず。今日都会の学校に入りて読書講論の様子を見れば、これを評して学者と言わざるを得ず。されども今にわかにその原書を取り上げてこれを田舎に放逐することあらば、親戚、朋友に逢うて「わが輩の学問は東京に残し置きたり」と言い訳するなどの奇談もあるべし。
 ゆえに学問の本趣意は読書のみにあらずして、精神の働きにあり。この働きを活用して実地に施すにはさまざまの工夫《くふう》なかるべからず。オブセルウェーションとは事物を視察することなり。リーゾニングとは事物の道理を推究して自分の説を付くることなり。この二ヵ条にてはもとよりいまだ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。なおこのほかに書を読まざるべからず、書を著わさざるべからず、人と談話せざるべか
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