家庭習慣の教えを論ず
福沢諭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)豕《ぶた》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)機嫌|悪《あ》しければ
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 人間の腹より生まれ出でたるものは、犬にもあらずまた豕《ぶた》にもあらず、取りも直さず人間なり。いやしくも人間と名の附く動物なれば、犬豕《けんし》等の畜類とは自《おの》ずから区別なかるべからず。世人が毎度いう通りに、まさしく人は万物の霊にして、生まれ落ちし始めより、種類も違い、階級にも斯《か》くまで区別のあることなれば、その仕事にもまた区別なかるべからず。人に恵まれたる物を食らいて腹を太くし、あるいは駆けまわり、あるいは噛《か》み合いて疲るれば乃《すなわ》ち眠る。これ犬豕が世を渡るの有様にして、いかにも簡易なりというべし。されども人間が世に居て務むべきの仕事は、斯《か》く簡易なるものにあらず、随分数多くして入り込みたるものなり。
 大略これを区別すれば、第一に一身を大切にして健康を保つこと。第二に活計の道、渡世の法を求めて衣食住に不自由なく生涯を安全に送ること。第三に子供を養育して一人前の男女となし、二代目の世の中にては、その子の父母となるに差支《さしつかえ》なきように仕込むことなり。第四に人々相集まりて一国一社会を成し、互いに公利を謀《はか》り共益を起こし、力の及ぶだけを尽してその社会の安全幸福を求むること。この四ヶ条の仕事をよくして十分に快楽を覚ゆるは論を俟《ま》たずといえども、今また別に求むべきの快楽あり。その快楽とは何ぞや。月見なり、花見なり、音楽舞踏なり、そのほか総て世の中の妨げとならざる娯《たの》しみ事は、いずれも皆心身の活力を引立つるために甚だ緊要のものなれば、仕事の暇《いとま》あらば折を以て求むべきことなり。これを第五の仕事とすべし。
 右の五ヶ条は、いやしくも人間と名の附く動物にして社会の一部分を務むるものは、必ずともに行うべき仕事なり。この仕事をさえ充分に成し得れば、人間社会の一人たるに恥ずることなかるべし。然《しか》りといえども今の文明の有様にては、充分を希望するはとても六《むつ》ヶしきことなれば、必ずしも充分にあらずとも、なるべきだけ充分に近づくことの出来るよう、精々《せいぜい》注意せざるべからず。余輩が毎《つね》に勧むる所の教育とは、即ちこの有様に近づき得るの力を強くするの道にほかならざるなり。
 故に一口に教育と呼び做《な》せども、その領分はなかなか広きものにて、ただに読み書きを教うるのみを以て教育とは申し難し。読み書きの如きはただ教育の一部分なるのみ。実に教育の箇条は、前号にも述べたる如く極めて多端なりといえども、早くいえば、人々が天然自然に稟《う》け得たる能力を発達して、人間急務の仕事を仕遂《しと》げ得るの力を強くすることなり。その天稟《てんぴん》の能力なるものは、あたかも土の中に埋れる種の如く、早晩《いつか》萌芽を出《いだ》すの性質は天然自然に備えたるものなり。されども能《よ》くその萌芽を出して立派に生長すると否《しか》らざるとは、単に手入れの行届くと行届かざるとに依《よ》るなり。即ち培養《ていれ》の厚薄良否に依るというも可なり。いわゆる教育なるものは則《すなわ》ち能力の培養にして、人始めて生まれ落ちしより成人に及ぶまで、父母の言行によって養われ、あるいは学校の教授によって導かれ、あるいは世の有様に誘《いざな》われ、世俗の空気に暴《さら》されて、それ相応に萌芽を出し生長を遂《と》ぐるものなれば、その出来不出来は、その培養たる教育の良否によって定まることなり。就中《なかんずく》幼少の時、見習い聞き覚えて習慣となりたることは、深く染み込めて容易に矯《た》め直しの出来ぬものなり。さればこそ習慣は第二の天性を成すといい、幼稚の性質は百歳までともいう程のことにて、真《まこと》に人の賢不肖《けんふしょう》は、父母家庭の教育次第なりというも可なり。家庭の教育、謹《つつし》むべきなり。
 然《しか》るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎《つね》に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置《しょち》するもの多きが如し。今その最も普通なる実例の一、二を示さんに、子供が誤って溝中《みぞなか》に落込み着物を汚すことあれば、厳しくその子を叱ることあり。もしまた誤って柱に行き当り額《ひたい》に瘤《こぶ》を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰むることあり。さてこの二つの場合において、子供の方にてはいずれも自身の誤りなれば頓《とん》と区別はなきこと
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