なれども、一には叱られ一には慰めらるるとはそもそも何故《なにゆえ》なるか。畢竟《ひっきょう》親の方にては格別深き考えもあらず、ただ一時の情意に発したるものなるべし。その第一例なる衣裳を汚したる方は、何ほどか母に面倒を掛けあるいは損害を蒙《こうむ》らしむることあれば、憤怒《ふんぬ》の情に堪えかねて前後の考えもなく覚えず知らず叱り附くることならん。また第二の方は、さまで面倒もなく損害もなき故、何となく子供の痛みを憐れみ、かつは泣声の喧《やかま》しきを厭《いと》い、これを避けんがために過ちを柱に帰して暫《しばら》くこれを慰むることならんといえども、父母のすることなすことは、善きも悪《あ》しきも皆一々子供の手本となり教えとなることなれば、縦令《たとい》父母には深き考えなきにもせよ、よくよくその係り合いを尋ぬれば、一は怒りの情に堪えきらざる手本になり、一は誤りを他に被《かぶ》せて自ら省みず、むやみに復讐の気合いを教え込むものにて、至極有り難からぬ教育なり。そのほか叱るべきことあるも父母の気向《きむき》次第にて、機嫌の善き時なればかえってこれを賞《ほ》め、機嫌|悪《あ》しければあるいはこれを叱る等の不都合は甚だ尠《すく》なからず。
 全体これらの父母たるものが、教育といえばただ字を教え、読み書きの稽古《けいこ》をのみするものと心得、その事をさえ程能《ほどよ》く教え込むときは立派な人間になるべしと思い、自身の挙動《ふるまい》にはさほど心を用いざるものの如し。されども少しく考え見るときは、身の挙動にて教うることは書を読みて教うるよりも深く心の底に染み込むものにて、かえって大切なる教育なれば、自身の所業は決して等閑《なおざり》にすべからず。つまる処、子供とて何時《いつ》までも子供にあらず、直《じき》に一人前の男女となり、世の中の一部分を働くべき人間となるべきものなれば、事の大小軽重を問わず、人間必要の習慣を成すに益《えき》あるか妨げあるかを考え合わせて、然る後に手を下すべきのみ。然らずんば、人間の腹より出でたる犬豕《けんし》を生ずること必定《ひつじょう》なり。斯《かか》る化物《ばけもの》は街道に連れ出して見世物となすには至極面白かるべけれども、世の中のためには甚だ困りものなり。



底本:「福沢諭吉家族論集」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「福澤諭吉全集 第19巻」岩波書店
   1962(昭和37)年11月5日初版発行
   1971(昭和46)年4月13日再版発行
初出:「家庭叢談 第九号」
   1876(明治9)年10月発行
入力:田中哲郎
校正:うきき
2009年1月13日作成
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