かりではありません。其周囲に居合せた人で、一人だッて涙を浮べない者はありませんでした。
『……兄さん、何様《どんな》事があったッて、死んじゃいやですよ。お国には、』と、また泣饒舌をなさる声が聞えたのです。
『もう可い、何も云わない方が可い、お前には実に困る。彼方へ行ってお呉れ。』
『余り醇いわ、兄さんは。』
『私は軍人だよ。』
『だけども、徴兵で為方《しかた》がなしになった軍人よ。月給を貰って妻子を養ってる、軍人とは違うんでしょう。貴方は家の相続人ですわ。お国には阿母さんが唯《た》ッた一人、兄さんを楽しみにして待ってらッしゃるでしょう。仙台は仙台で、三歳になる子まである嫂さんがあるでしょう。それだのに、兄さんが万一、』
『ええ、聞く耳が無い。』と、其の兄さんはつと体を退《ひ》いて、向側の窓の方に腰を卸してお了いでした。
『兄さん兄さん。』と、窓につかまって伸上り伸上りして、『国の為ッ国の為ッて、親も子も妻も餓死んでも、兄さんは兄さんは兄さんは……無理に殺しに連れてかれる人もないわ。阿母さんや嫂さんの事を思って頂戴よ。えッえッえッ。』
『此所にも軍人はいくらも居るよ』
窓の近くに居た兵士の一人が、大きな声で叱る様に斯うお云いでしたの。私可怖かったわ、あの呪う様な眼で、凝乎と其兵士をお睨みでした顔と云ったら。
『決して後の事心配しなさるでねえよ。私|何様《どんな》思いをしても、阿母や此児に餓《ひも》じい目を見せる事でねえから、安心して行きなさるが可えよ。』
良人の其人も目は泣きながら、嬉しそうに首肯《うつむ》かれたのでした。『乃公《おれ》はもう何んにも思い置く事はねえよ。村に帰ったら、皆さんへ宜敷く云って呉れるがいい。』
『ああ、能う御座えますよ。』
二人はもう何も云う事がなくなった様に、互に顔を見てお居ででしたが、女の人は急に思出した様に、抱いて居た赤さんの顔を夫へお見せでして、『此子はお前さんの顔を覚えられねえけんど、お前さんは此子の顔を能く覚えて、戦死《うちじに》しても忘れねえで下せえよ。それが此子への……。』
親御の二人よりかも、傍の一同が泣いて了いました。
途端にもう汽車は出るのでした。直ぐ出ました。看々《みるみる》うちに遠くなって、後は万歳の声ばかり。
私も悲しかったの若子さんに劣らなかったでしょう。二人とも唯だ夢心地に佇んで居ました。
『心にも
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