たのです。見ますとね、先刻の何人《だれ》でも呪いそうな彼の可怖い眼の方が、隣の列車の窓につかまって泣いてらッしゃるのでした、多くの人目も羞じないで。鋭い声の、あれが泣|饒舌《じゃべり》と云うのかも知れませんね。
『兄さん、貴方は死んで呉れちゃいやですよ。決して死ぬんじゃありませんよ。貴方は普通《ただ》の兵士《へいたい》ですよ。戦争《いくさ》の時、死ぬ為に、平生《つね》から扶持を受けてる人達とは違ってよ。兄さん自分から好んで、』
 強い咳払いを一つ、態《わざ》と三つまで続けて、其女の方の言葉を紛らそうとしたのは、其兄上らしい三十近い兵士《へいたい》さんでした。それで、其兵士の顔には、他の人への羞しい様な色が溢れて、妹さんを見据えてお居での眼は、何様《どんな》に迷惑そうに見られたでしょう。
『もう可いから、彼方へ御行で……お前の云った事は、既《も》う充分解ってる。其処を退いたら可いだろう。邪魔だよ、何時までも一人で、其処を占領しているのは。御覧、皆さんが彼様に立って居らッしゃるじゃないか。』
 其女の方の後には、幾個《いくたり》かの人の垣を為た様に取巻いて、何人も呆れてお居での様でした。
『彼の女は僕の云う様な事を云っている。』
 突如《だしぬけ》に斯う云った人があったのです。見返ると、あの可厭《いやな》々々学生が、何時か私達の傍近くに立って居たではありませんか。
 若子さんの御兄さんは、じろりと彼の学生の顔を御覧でした。
 若子さんは小さな声で、『兄さん、彼女の方は随分ですわねえ。』
『女だから可いさ。』と、御兄さんは気にも御止めなさらない様でした。
 其時、私は不図あの可哀相な――私が何となくそう思った――乳呑子を懐いた女の人を見出したのです。それはつい、泣饒舌をして居た方から、二つ先の窓の処でした。そして、窓の中から見下して居た若い兵士の、黒い黒い顔の、それでも優しいそうな其眼に、一杯涙が見えて居ました。
『……鶴さん、些《ち》っとも未練残さねえで、えれえ働きをしてね、人に笑われねえで下せえよ。』
 と、眼には涙がほろほろと溢れてお居ででしたが、『お前さんが戦死《うちじに》さッしゃッても、日本中の人の為だと思って私諦めるだからね、お前さんも其気で……ええかね。』と、赤さんを抱いてお居での方は袖に顔を押当てお了いでした。
 涙を拭いたのは、其方の良人の兵士さんと私ば
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