間が取れるようだ。本統に帰るのか知らん。去《かえ》らなきゃ去らないでもいい。情夫《いいひと》だとか何だとか言ッて騒いでやアがるんだから、どうせ去《かえ》りゃしまいよ。去らなきゃそれでいいから、顔だけでもいいから、ちょいとでもいいから……。今夜ッきりだ。もう来られないのだ。明日はどうなるんだか、まア分ッてるようでも……。自分ながら分らないんだ。ああ……」
方角も吉里の室、距離《とおさ》もそのくらいのところに上草履の音が発《おこ》ッて、「平田さん、お待ちなさいよ」と、お梅の声で呼びかけて追いかける様子である。その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。
「や、去《かえ》るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥《は》ね起きて障子を開けようとして、「またお梅にでもめッけられちゃア外見《きまり》が悪いな」と、障子の破隙《やぶれ》からしばらく覗いて、にッこりしながらまた夜具の中に潜り込んだ。
上草履の音はしばらくすると聞えなくなッた。善吉は耳を澄ました。
「やッぱり去《かえ》らないんだと見えらア。去らなきゃア吉里が来ちゃアくれまい。ああ」と、善吉は火鉢に翳していた両手の間に頭を埋めた。
しばらく
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