前はわけて走るようにして通ッた男がある。
 お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語《ささや》いた。
「え、善さん」と、西宮も見送りながら、「ふうむ」
 三ツばかり先の名代《みょうだい》部屋で唾壺《はいふき》の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸《あくび》をした。
 途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。
「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外|沈着《おちつ》いていた。
 平田は驚くほど蒼白《あおざめ》た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語《ひとりごと》のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。
「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻《もど》ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて行く。
「兄さん」と、吉里は背後《うしろ》から西宮の肩を抱《いだ》いて、「兄さんは来て下さるでしょうね。きッとですよ、きッとですよ」
 西宮は肩へ掛けられた吉里の手をしかと握ッたが、妙に胸が迫ッて返辞がされないで、ただうなずいたばかりだ。
「平田さん、お待ちなさいよ。平田さん」
 お梅が
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