小万さん」
「へん、また後で泣こうと思ッて」
「誰が」
「よし。きっとだね」と、西宮は念を押す。
「ふふん」と、吉里は笑ッて、「もう虐《いじ》めるのはたくさん」
 店梯子《みせばしご》を駈《か》け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙《せわ》しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。
「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰《ひそ》めた。
 ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室《へや》の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。
「何だよ」
「ちょいとお顔を」
「あい。初会《しょかい》なら謝罪《ことわ》ッておくれ」
「お馴染《なじ》みですから」
「誰だ。誰が来たんだ」と、西宮は小万の顔を真面目《まじめ》に見つめた。
「おほほ――、妬《や》けるんだよ」と、吉里は笑い出した。
「ははははは。どうだい、僕の薬鑵《やかん》から蒸気《ゆげ》が発《た》ッてやアしないか」
「ああ、発ッてますよ。口惜《くや》しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻《つね》る。
「あいた。ひどい
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