今戸心中
広津柳浪

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)太空《そら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|片《ぺん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]
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     一

 太空《そら》は一|片《ぺん》の雲も宿《とど》めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽《しま》るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月《みつき》の淋《さび》しさは免《のが》れず、大門《おおもん》から水道尻《すいどうじり》まで、茶屋の二階に甲走《かんばし》ッた声のさざめきも聞えぬ。
 明後日《あさッて》が初酉《はつとり》の十一月八日、今年はやや温暖《あたた》かく小袖《こそで》を三枚《みッつ》重襲《かさね》るほどにもないが、夜が深《ふ》けてはさすがに初冬の寒気《さむさ》が身に浸みる。
 少時前《いまのさき》報《う》ッたのは、角海老《かどえび》の大時計の十二時である。京町には素見客《ひやかし》の影も跡を絶ち、角町《すみちょう》には夜を警《いまし》めの鉄棒《かなぼう》の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店《はりみせ》にもやや雑談《はなし》の途断《とぎ》れる時分となッた。
 廊下には上草履《うわぞうり》の音がさびれ、台の物の遺骸《いがい》を今|室《へや》の外へ出しているところもある。はるかの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。
「うるさいよ。あんまりしつこい[#「しつこい」に傍点]じゃアないか。くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊下を急歩《いそい》で行くのは、当楼《ここ》の二枚目を張ッている吉里《よしざと》という娼妓《おいらん》である。
「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁《おいらん》、困りますよ」と、吉里の後から追い縋《すが》ッたのはお熊《くま》という新造《しんぞう》。
 吉里は二十二三にもなろうか、今が稼《かせ》ぎ盛りの年輩《としごろ》である。美人質《びじんだち》ではないが男好きのする丸顔で、しかもどこかに剣が見える。睨《にら》まれると凄《すご》いような、にッこりされると戦《ふる》いつきたいような、清《すず》しい可愛らしい重縁眼《ふたかわめ》が少し催涙《うるん》で、一の字|眉《まゆ》を癪《しゃく》だというあんばいに釣《つ》り上げている。纈《くく》り腮《あご》をわざと突き出したほど上を仰《む》き、左の牙歯《いときりば》が上唇《うわくちびる》を噛《か》んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手《ふところで》をして肩を揺すッて、昨日《きのう》あたりの島田|髷《まげ》をがくりがくりとうなずかせ、今月《この》一|日《にち》に更衣《うつりかえ》をしたばかりの裲襠《しかけ》の裾《すそ》に廊下を拭《ぬぐ》わせ、大跨《おおまた》にしかも急いで上草履を引き摺《ず》ッている。
 お熊は四十|格向《がッこう》で、薄痘痕《うすいも》があッて、小鬢《こびん》に禿《はげ》があッて、右の眼が曲《ゆが》んで、口が尖《とんが》らかッて、どう見ても新造面《しんぞうづら》――意地悪別製の新造面である。
 二女《ふたり》は今まで争ッていたので、うるさがッて室《へや》を飛び出した吉里を、お熊が追いかけて来たのである。
「裾が引き摺ッてるじゃアありませんか。しようがないことね」
「いいじゃアないか。引き摺ッてりゃ、どうしたと言うんだよ。お前さんに調《こさ》えてもらやアしまいし、かまッておくれでない」
「さようさね。花魁をお世話申したことはありませんからね」
 吉里は返辞をしないでさッさッと行く。お熊はなお附き纏《まと》ッて離れぬ。
「ですがね、花魁。あんまりわがままばかりなさると、私が御内所《ごないしょ》で叱《しか》られますよ」
「ふん。お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴《いッつ》けておくれ」
 白字《はくじ》で小万《こまん》と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩《あし》を止めた。
「善さんだッてお客様ですよ。さッきからお酒肴《あつらえ》が来てるんじゃありませんか」
「善さんもお客だッて。誰《だれ》がお客でないと言ッたんだよ。当然《あたりまえ》なことをお言いでない」と、吉里は障子を開けて室内《うち》に入ッて、後をぴッしゃり手荒く閉めた。
「どうしたの。また疳癪《かんしゃく》を発《おこ》しておいでだね」
 次の間の長火鉢《ながひばち》で燗《かん》をしながら吉里へ声をかけたのは、小万と呼び当楼《ここ
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