なことが現在になッて見える。自分の様子、自分の姿、自分の妄想がことごとく現在となッて、自分の心に見える。今朝の別離《わかれ》の辛さに、平田の帯を押えて伏し沈んでいたのも見える。わる止めせずともと東雲《しののめ》の室《へや》で二上り新内を唄《うた》ッたのも、今耳に聞いているようである。店に送り出した時はまるで夢のようで、その時自分は何と思ッていたのか。あのこともあのことも、あれもこれも言いたかッたのに、何で自分は言うことが出来なかッたのか。いえ、言うことの出来なかッたのが当然《あたりまえ》であッた。ああ、もうあの車を止めることは出来ぬか。悲しくてたまらなくなッて、駈け出して裏梯子を上ッて、座敷へ来て泣き倒れた自分の姿が意気地なさそうにも、道理《もっとも》らしくも見える。万一を希望していた通り、その日の夜になッたら平田が来て、故郷《くに》へ帰らなくともよいようになッたと、嬉しいことばかりを言う。それを聞く嬉しさ、身も浮くばかりに思う傍から、何奴《なにやつ》かがそれを打ち消す、平田はいよいよ出発したがと、信切な西宮がいつか自分と差向いになッて慰めてくれる。音信《たより》も出来ないはずの音信が来て、初めから終《しま》いまで自分を思ッてくれることが書いてあッて、必ずお前を迎えるようにするからと、いつもの平田の書振りそのままの文字が一字一字読み下されるように見えて来る。かと思うと、自分はいつか岡山へ行ッていて、思ッたよりも市中が繁華で、平田の家も門構えの立派な家で、自分のかねて思ッていたような間取りで、庭もあれば二階もあり蔵もある。家君《おとッ》さんは平田に似て、それで柔和で、どこか気抜けがしているようにも見え、自分を見てどこから来たかと言いたそうな顔をしていて、平田から仔細《しさい》を聞いて、急に喜び出して大層自分を可愛がッてくれる。弟《おとと》も妹《いもと》も平田から聞いていた年ごろで、顔つき格向《かっこう》もかねて想像していた通りで、二人ともいかにも可愛らしい。妹の方が少し意地悪ではないかと思ッていたことまでそのままで、これが少し気に喰わないけれども、姉さん姉さんと慕ッてくれて、東京風に髪を結ッてくれろなどと言うところは、またなかなか愛くるしくも思われる。かねて平田に写真を見せてもらッて、その顔を知ッている死去《なくな》ッたお母《ッか》さんも時々顔を出す。これがまた優しくしてくれて、お母さんがいたなら、お前を故郷《くに》へ連れて行くと、どんなに可愛がって下さるだろうと、平田の寝物語に聞いていた通り可愛がッてくれるかと思うと、平田の許嫁《いいなずけ》の娘というのが働いていて、その顔はかねて仲の悪い楼内《うち》の花子という花魁そのままで、可愛らしいような憎らしいような、どうしても憎らしい女で、平田が故郷《くに》へ帰ッたのはこの娘と婚礼するためであッたことも知れて来た。やッぱりそうだッた、私しゃ欺《だま》されたのだと思うと、悲しい中にまた悲しくなッて涙が止らなくなッて来る。西宮さんがそんな虚言《うそ》を言う人ではないと思い返すと、小万と二人で自分をいろいろ慰めてくれて、小万と姉妹《きょうだい》の約束をして、小万が西宮の妻君になると自分もそこに同居して、平田が故郷《くに》の方の仕法《ほう》がついて出京したら、二夫婦揃ッて隣同士家を持ッて、いつまでも親類になッて、互いに力になり合おうと相談もしている。それも夢のように消えて、自分一人になると、自由《まま》にならぬ方の考えばかり起ッて来て、自分はどうしても此楼《ここ》に来年の四月まではいなければならぬか。平田さんに別れて、他に楽しみもなくッて、何で四月までこんな真似がしていられるものか。他の花魁のように、すぐ後に頼りになる人が出来そうなことはなし、頼みにするのは西宮さんと小万さんばかりだ。その小万さんは実に羨ましい。これからいつも見せられてばかりいるのか。なぜ平田さんがあんなことになッたんだろう。も一度平田さんが来てくれるようには出来ないのか。これから毎日毎日いやな思いばかりするのかと思いながら、善吉が自分の前に酒を飲んでいる、その一挙一動がことごとく眼に見えていて、これがその人であッたならと、覚えず溜息も吐《つ》かれるのである。
吉里は悲しくもあり、情なくもあり、口惜《くや》しくもあり、はかなくも思うのである。詰まるところは、頼りないのが第一で、どうしても平田を忘れることが出来ないのだ。
今日限りである、今朝が別れであると言ッた善吉の言葉は、吉里の心に妙にはかなく情なく感じて、何だか胸を圧《おさ》えられるようだ。
冷遇《ふッ》て冷遇て冷遇《ふり》抜いている客がすぐ前の楼《うち》へ登《あが》ッても、他の花魁に見立て替えをされても、冷遇《ふッ》ていれば結局《けッく》喜ぶべきであるのに、外聞の
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