へ行くんでしょうね」
「今の汽車かね。青森まで行かなきゃ、仙台で止るんだろう」
「仙台。神戸にはいつごろ着くんでしょう」
「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」
「そう。そうだ新橋だッたんだよ」と、吉里はうつむいて、「今晩の新橋の夜汽車だッたッけ」
 吉里は次の間の長火鉢の傍に坐ッて、箪笥《たんす》にもたれて考え始めた。善吉は窓の障子を閉めて、吉里と火鉢を挾んで坐り、寒そうに懐手をしている。
 洗い物をして来たお熊は、室の内に入りながら、「おや、もうお起きなすッたんですか。もすこしお臥《よ》ッてらッしゃればいいのに」と、持ッて来た茶碗《ちゃわん》小皿などを茶棚《ちゃだな》へしまいかけた。
「なにもう寝なくッても――こんなに明るくなッちゃア寝てもいられまい。何しろ寒くッて、これじゃアたまらないや。お熊どん、私の着物を出してもらおうじゃないか」
「まアいいじゃアありませんか。今朝はゆっくりなすッて、一口召し上ッてからお帰りなさいましな」
「そうさね。どうでもいいんだけれど、何しろ寒くッて」
「本統に馬鹿にお寒いじゃあありませんかね。何か上げましょうね。ちょいとこれでも被《はお》ッていらッしゃい」と、お熊は衣桁《いこう》に掛けてあッた吉里のお召|縮緬《ちりめん》の座敷着を取ッて、善吉の後から掛けてやッた。
 善吉はにっこりして左右の肩を見返り、「こいつぁア強気《ごうぎ》だ。これを借りてもいいのかい」
「善さんのことですもの。ねえ。花魁」
「へへへへへ。うまく言ッてるぜ」
「よくお似合いなさいますよ。ほほほほほ」
「はははは。袖を通したら、おかしなものだろう」
「なに、あなた。袖をお通しなすッて立ッてごらんなさい、きッとよくお似合いなさいますよ。ねえ、花魁」
「まさか。ははははは」
「ほほほほほ」
 吉里は一語《ひとこと》も発《い》わぬ。見向きもせぬ。やはり箪笥にもたれたまま考えている。
「そうしていらッしゃるうちに、お顔を洗ッていらッしゃいまし。その間《うち》にお掃除をして、じきにお酒にするようにしておきますよ。花魁、お連れ申して下さい。はい」と、お熊は善吉の前に楊枝箱《ようじばこ》を出した。
 善吉は吉原楊枝の房を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》ッては火鉢の火にくべている。
「お誂《あつら》えは何を通しましょうね。早朝《はやい》んですから、何も出来ゃアしませんよ。桶豆腐《おけどうふ》にでもしましょうかね。それに油卵《あぶたま》でも」
「何でもいいよ。湯豆腐は結構だね」
「それでよござんすね。じゃア、花魁お連れ申して下さい」
 吉里は何も言わず、ついと立ッて廊下へ出た。善吉も座敷着を被《はお》ッたまま吉里の後《あと》から室を出た。
「花魁、お手拭は」と、お熊は吉里へ声をかけた。
 吉里は返辞をしない。はや二三間あちらへ行ッていた。
「私におくれ」と、善吉は戻ッて手拭を受け取ッて吉里を見ると、もう裏梯子を下りようとしていたところである。善吉は足早に吉里の後を追うて、梯子の中段で追いついたが、吉里は見返りもしないで下湯場《しもゆば》の方へ屈《まが》ッた。善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人|悄然《しょうぜん》として顔を洗いに行ッた。
 そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼《あいかた》はいずれもその傍に附き添い、水を杓《く》んでやる、掛けてやる、善吉の目には羨ましく見受けられた。
 客の羽織の襟が折れぬのを理《なお》しながら善吉を見返ッたのは、善吉の連初会《つれじょかい》で二三度一座したことのある初緑《はつみどり》という花魁である。
「おや、善さん。昨夜《ゆうべ》もお一人。あんまりひどうござんすよ。一度くらいは連れて来て下すッたッていいじゃありませんか。本統にひどいよ」
「そういうわけじゃアないんだが、あの人は今こっちにいないもんだから」
「虚言《うそ》ばッかし。ようござんすよ。たんとお一人でおいでなさいよ」
「困るなアどうも」
「なに、よござんすよ。覚えておいでなさいよ。今日は昼間遊んでおいでなさるんでしょう」
「なに、そういうわけでもない」
「去《かえ》らないでおいでなさいよ、後で遊びに行きますから」
「東雲《しののめ》さんの吉《きッ》さんは今日も流連《なが》すんだッてね」と、今一人の名山《めいざん》という花魁が言いかけて、顔を洗ッている自分の客の書生風の男の肩を押え、「お前さんも去《かえ》らないで、夕方までおいでなさいよ」
「僕か。僕はいかん。なア君」
「そうじゃ。いずれまた今晩でも出直して来るんじゃ」
「よござんすよ、お前さんなんざアどうせ不実だから」
「何じゃ。不実じゃ」
「名山さん、金盥《かなだらい》が明いたら貸しておくれよ」と、今客を案内して来た
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