ふたり》の外套帽子を取りに小万の部屋へ走ッて行った。
「平田さん」と、小万は平田の傍へ寄り、「本統にお名残り惜しゅうござんすことね。いつまたお目にかかれるでしょうねえ。御道中をお気をおつけなさいよ。貴郷《おくに》にお着きなすッたら、ちょいと知らせて下さいよ。ね、よござんすか。こんなことになろうとはね」
「何だ。何を言ッてるんだ。一言言やア済むじゃアないか」
 西宮に叱られて、小万は顔を背向《そむ》けながら口をつぐんだ。
「小万さん、いろいろお世話になッたッけねえ」と、平田は言いかけてしばらく無言。「どうか頼むよ」その声には力があり過ぎるほどだが、その上は言い得なかった。
 小万も何とも言い得ないで、西宮の後にうつむいている吉里を見ると、胸がわくわくして来て、涙を溢《こぼ》さずにはいられなかッた。
 お梅が帽子と外套を持ッて来た時、階下《した》から上ッて来た不寝番《ねずばん》の仲どんが、催促がましく人車《くるま》の久しく待ッていることを告げた。
 平田を先に一同梯子を下りた。吉里は一番後れて、階段《ふみだん》を踏むのも危険《あぶな》いほど力なさそうに見えた。
「吉里さん、吉里さん」と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮《すく》んだようで、上《あが》り框《がまち》までは行かれなかッた。
「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、西宮も声をかけた。
 吉里は一語《ひとこと》も吐《だ》さないで、真蒼《まッさお》な顔をしてじッと平田を見つめている。平田もじッと吉里を見ていたが、堪えられなくなッて横を向いた時、仲どんが耳門《くぐり》を開ける音がけたたましく聞えた。平田は足早に家外《おもて》へ出た。
「平田さん、御機嫌《ごきげん》よろしゅう」と、小万とお梅とは口を揃《そろ》えて声をかけた。
 西宮はまた今夜にも来て様子を知らせるからと、吉里へ言葉を残して耳門《くぐり》を出た。
「おい、気をつけてもらおうよ。御祝儀を戴いてるんだぜ。さようなら、御機嫌よろしゅう。どうかまたお近い内に」
 車声《くるま》は走り初めた。耳門はがらがらと閉められた。
 この時まで枯木《こぼく》のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零《おと》し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子から二階の自分の室へ駈け込み、まだ温気《あたたかみ》のある布団《ふとん》の上に泣き倒れた。

     六

 万客《ばんきゃく》の垢《あか》を宿《とど》めて、夏でさえ冷やつく名代部屋の夜具の中は、冬の夜の深《ふ》けては氷の上に臥《ね》るより耐えられぬかも知れぬ。新造《しんぞ》の注意か、枕もとには箱火鉢に湯沸しが掛かッて、その傍には一本の徳利と下物《さかな》の尽きた小皿とを載せた盆がある。裾の方は屏風《びょうぶ》で囲われ、頭《かみ》の方の障子の破隙《やぶれ》から吹き込む夜風は、油の尽きかかッた行燈の火を煽《あお》ッている。
「おお、寒い寒い」と、声も戦《ふる》いながら入ッて来て、夜具の中へ潜《もぐ》り込み、抱巻《かいまき》の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳《かざ》したのは、富沢町の古着屋|美濃屋《みのや》善吉と呼ぶ吉里の客である。
 年は四十ばかりで、軽《かろ》からぬ痘痕《いも》があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋《まぶた》に眼張《めっぱ》のような疵《きず》があり、見たところの下品《やすい》小柄の男である。
 善吉が吉里のもとに通い初めたのは一年ばかり前、ちょうど平田が来初めたころのことである。吉里はとかく善吉を冷遇し、終宵《いちや》まったく顔を見せない時が多かッたくらいだッた。それにも構わず善吉は毎晩のように通い詰め通い透《とお》して、この十月ごろから別して足が繁くなり、今月になッてからは毎晩来ていたのである。死金ばかりは使わず、きれるところにはきれもするので、新造や店の者にはいつも笑顔で迎えられていたのであった。
「寒いッたッて、箆棒《べらぼう》に寒い晩だ。酒は醒《さ》めてしまッたし、これじゃアしようがない。もうなかッたかしら」と、徳利を振ッて見て、「だめだ、だめだ」と、煙管《きせる》を取り上げて二三|吹《ぷく》続けさまに煙草を喫《の》んだ。
「今あすこに立ッていたなア、小万の情夫《いいひと》になッてる西宮だ。一しょにいたのはお梅のようだッた。お熊が言ッた通り、平田も今夜はもう去《かえ》るんだと見えるな。座敷が明いたら入れてくれるか知らん。いい、そんなことはどうでもいい。座敷なんかどうでもいいんだ。ちょいとでも一しょに寝て、今夜ッきり来ないことを一言断りゃいいんだ。もう今夜ッきりきッと来ない。来ようと思ッたッて来られないのだ。まだ去《かえ》らないのかなア。もう帰りそうなものだ。大分手
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