さんはちッともお臥《よ》らないで、こなたの……」と、言い過ぎようとして気がついたらしく、お梅は言葉を切ッた。
「そうか。気の毒だッたなア。さア行こう」
吉里はなお帯を放さぬ。
「まアいいよ。そんなに急がんでもいいよ」と、声をかけながら、障子を開けたのは西宮だ。
「おやッ、西宮さん」と、お梅は見返ッた。
「起きてるのかい」と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風《びょうぶ》の中を覗くと、平田は帯を締め了《おわ》ろうとするところで、吉里は後から羽織を掛け、その手を男の肩から放しにくそうに見えた。
「失敬した、失敬した。さア出かけよう」
「まアいいさ」
「そうでない、そうでない」と、平田は忙がしそうに体を揺すぶりながら室《へや》を出かけた。
「ああ、ちょいと、あの……」と、吉里の声は戦《ふる》えた。
「おい、平田。何か忘れた物があるんじゃアないか」
「なにない。何にもない」
「君はなかろうが……。おい、おい、何をそんなに急ぐのだ」
「何をッて」
西宮は平田の腕を取ッて、「まア何でもいい。用があるから……。まア、少し落ちついて行くさ」と、再び室の中に押し込んで、自分はお梅とともに廊下の欄干《てすり》にもたれて、中庭を見下している。
研《と》ぎ出したような月は中庭の赤松の梢《こずえ》を屋根から廊下へ投げている。築山《つきやま》の上り口の鳥居の上にも、山の上の小さな弁天の社《やしろ》の屋根にも、霜が白く見える。風はそよとも吹かぬが、しみるような寒気《さむさ》が足の爪先《つまさき》から全身を凍らするようで、覚えず胴戦《どうぶる》いが出るほどだ。
中庭を隔てた対向《むこう》の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女《なんにょ》二個《ふたつ》の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。
「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背《せなか》を欄干《てすり》にもたせ変えた時、二上《にあが》り新内を唄《うた》うのが対面《むこう》の座敷から聞えた。
「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなにどんなに、つらかろう――」
「あれは東雲《しののめ》さんの座敷だろう。さびのある美音《いいこえ》だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問《たず》ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の前はわけて走るようにして通ッた男がある。
お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語《ささや》いた。
「え、善さん」と、西宮も見送りながら、「ふうむ」
三ツばかり先の名代《みょうだい》部屋で唾壺《はいふき》の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸《あくび》をした。
途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。
「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外|沈着《おちつ》いていた。
平田は驚くほど蒼白《あおざめ》た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語《ひとりごと》のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。
「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻《もど》ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて行く。
「兄さん」と、吉里は背後《うしろ》から西宮の肩を抱《いだ》いて、「兄さんは来て下さるでしょうね。きッとですよ、きッとですよ」
西宮は肩へ掛けられた吉里の手をしかと握ッたが、妙に胸が迫ッて返辞がされないで、ただうなずいたばかりだ。
「平田さん、お待ちなさいよ。平田さん」
お梅が幾たび声をかけても、平田はなお見返らないで、廊下の突当りの角を表梯子《おもてばしご》の方へ曲ろうとした時、「どこへおいでなさるの。こッちですよ」と、声をかけたのは小万だ。
「え、何だ。や、小万さんか。失敬」と、平田は小万の顔を珍らしそうにみつめた。
「どうなすッたの。ほほほほほ」
「お草履をおはきなさいよ」と、お梅は上草履を平田の前に置いた。
「あ、そうか」と、平田が上草履をはくところへ西宮も吉里も追いついた。
「あんまり何だから、どうなすッたかと思ッて……。平田さん、私の座敷へいらッしゃいよ。ゆッくりお茶でも召し上ッて。ねえ、吉里さん」
「ありがとう。いや、もう行こう。ねえ、西宮」
「そんなことをおッしゃらないで。何ですよ、まアいいじゃアありませんか」
西宮はじッと小万の顔を見た。吉里は西宮の後にうつむいている。平田は廊下の洋燈《ランプ》を意味もなく見上げている。
「もうこのまま出かけよう。夜が明けても困る」と、西宮は小万にめくばせして、「お梅どん、帽子と外套《がいとう》を持ッて来るんだ。平田のもだよ。人車《くるま》は来てるだろうな」
「もうさッきから待ッてますよ」
お梅は二客《
前へ
次へ
全22ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
広津 柳浪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング