一線《ひとすじ》剰《のこ》さず、廊下に雑巾まで掛けてしまった。
出入りの鳶《とび》の頭《かしら》を始め諸商人、女髪結い、使い屋の老物《じじい》まで、目録のほかに内所から酒肴《しゅこう》を与えて、この日一日は無礼講、見世から三階まで割れるような賑《にぎ》わいである。
娼妓《しょうぎ》もまた気の隔《お》けない馴染みのほかは客を断り、思い思いに酒宴を開く。お職女郎の室は無論であるが、顔の古い幅の利く女郎の室には、四五人ずつ仲のよい同士が集《よ》ッて、下戸上戸飲んだり食ッたりしている。
小万はお職ではあり、顔も古ければ幅も利く。内所の遣《つか》い物に持寄りの台の数々、十畳の上の間から六畳の次の間までほとんど一杯になッていた。
鳶の頭と店の者とが八九人、今|祝《し》めて出て行ッたばかりのところで、小万を始め此糸《このいと》初紫《はつむらさき》初緑名山千鳥などいずれも七八分の酔《え》いを催し、新造《しんぞ》のお梅まで人と汁粉《しるこ》とに酔ッて、頬から耳朶《みみたぶ》を真赤にしていた。
次の間にいたお梅が、「あれ危ない。吉里さんの花魁、危のうござんすよ」と、頓興《とんきょ》な声を上げたので、一同その方を見返ると、吉里が足元も定まらないまで酔ッて入ッて来た。
吉里は髪を櫛巻きにし、お熊の半天を被《はお》ッて、赤味走ッたがす[#「がす」に傍点]糸織に繻子《しゅす》の半襟を掛けた綿入れに、緋《ひ》の唐縮緬《とうちりめん》の新らしからぬ長襦袢《ながじゅばん》を重ね、山の入ッた紺博多《こんはかた》の男帯を巻いていた。ちょいと見たところは、もう五六歳《いつつむッつ》も老《ふ》けていたら、花魁の古手の新造落《しんぞお》ちという風俗である。
呆《あき》れ顔をしてじッと見ていた小万の前に、吉里は倒れるように坐ッた。
吉里は蒼い顔をして、そのくせ目を坐《す》えて、にッこりと小万へ笑いかけた。
「小万さん。私しゃね、大変|御無沙汰《ごぶさた》しッちまッて、済まない、済まない、ほんーとうに済まないんだねえ。済まないんだよ、済まないんだよ、知ッてて済まないんだからね。小万さん、先日《いつか》ッからそう[#「そう」に傍点]思ッてたんだがね、もういい、もういい、そんなことを言ッたッて、ねえ小万さん、お前さんに笑われるばかしなんだよ。笑う奴ア笑うがいい。いくらでもお笑い。さアお笑い。笑ッておく
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