た小万さんでさえ、もうとうから交際《つきあわ》ないんだよ」
「あんな義理を知らない人と、誰が交際《つきあ》うものかね。私なんか今怒ッちゃア損だから、我慢して口を利いてるんさ。もうじきお正月だのに、いつ返してくれるんだろう」
「本統だね。明日指環を返さなきゃ、承知しやアしない」
「煤払《すすはら》いの時、衆人《みんな》の前で面《つら》の皮を引《ひ》ん剥《む》いておやりよ」
「それくらいなことをしたッて平気だろうよ。あんな義理知らずはありゃアしないよ」
名山がふと廊下の足音を見返ると、吉里が今便所から出て湯殿の前を通るところであッた。しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もなかッた。
* * *
吉里は用事をつけてここ十日ばかり店を退《ひ》いているのである。病気ではないが、頬に痩《や》せが見えるのに、化粧《みじまい》をしないので、顔の生地は荒れ色は蒼白《あおざめ》ている。髪も櫛巻《くしま》きにして巾《きれ》も掛けずにいる。年も二歳《ふたつ》ばかり急に老《ふ》けたように見える。
火鉢の縁に臂《ひじ》をもたせて、両手で頭を押えてうつむいている吉里の前に、新造《しんぞ》のお熊が煙管《きせる》を杖《つえ》にしてじろじろと見ている。
行燈は前の障子が開けてあり、丁字《ちょうじ》を結んで油煙が黒く発《た》ッている。蓋《ふた》を開けた硯箱《すずりばこ》の傍には、端を引き裂いた半切《はんきれ》が転がり、手箪笥の抽匣《ひきだし》を二段斜めに重ねて、唐紙の隅《すみ》のところへ押しつけてある。
お熊が何か言おうとした矢先、階下《した》でお熊を呼ぶ声が聞えた。お熊は返辞をして立とうとして、またちょいと蹲踞《しゃが》んだ。
「ねえ、よござんすか。今晩からでも店にお出なさいよ。店にさえおいなさりゃ、御内所《ごないしょ》のお神さんもお前さんを贔屓《ひいき》にしておいでなさるんだから、また何とでも談話《はなし》がつくじゃアありませんか。ね、よござんすか。あれ、また呼んでるよ。よござんすか、花魁。もう今じゃ来なさらないけれども、善さんなんぞも当分呼ばないことにして、ねえ花魁、よござんすか。ちょいと行ッて来ますからね、よく考えておいて下さいよ。今行くてえのにね、うるさく呼ぶじゃないか。よござんすか
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