ながら吉里の顔を見ると、どう見ても以前の吉里に見えぬ。眼の中に実情《まごころ》が見えるようで、どうしても虚情《うそ》とは思われぬ。小遣いにせよと言われたその紙入れを握ッている自分の手は、虚情《うそ》でない証拠をつかんでいるのだ。どうしてこんなことになッたのか。と、わからないながらに嬉しくてたまらず、いつか明日《あした》のわが身も忘れてしまッていた。
「善さん、私もね、本統に頼りがないんですから」と、吉里ははらはらと涙を零《こぼ》して、「これから頼りになッておくんなさいよ」と、善吉を見つめた時、平田のことがいろいろな方から電光のごとく心に閃《ひら》めいた。吉里は全身《みうち》がぶる[#「ぶる」に傍点]ッと顫えて、自分にもわからないような気がした。
 善吉はただ夢の中をたどッている。ただ吉里の顔を見つめているのみであッたが、やがて涙は頬を流れて、それを拭く心もつかないでいた。
「吉里さん」と、廊下から声をかけたのは小万である。
「小万さん、まアお入りな」
「どなたかおいでなさるんじゃアないかね」と、小万は障子を開けて、「おや、善さん。お楽しみですね」
 小万の言葉は吉里にも善吉にも意味あるらしく聞えた。それは迎えて意味あるものとして聞いたので、吉里は何も言いたくないような心持がした。善吉は言う術《すべ》を失ッて黙ッていた。
 二人とも返辞をしないのを、小万も妙に感じたので、これも無言。三人とも何となくきまりが悪く、白《しら》け渡ッた。
「小万さん、小万さん」と、遠くから呼んだ者がある。
 見ると向う廊下の東雲《しののめ》の室の障子が開いていて、中から手招ぎする者がある。それは東雲の客の吉《きッ》さんというので、小万も一座があッて、戯言《じょうだん》をも言い合うほどの知合いである。
「吉里さん、後刻《のち》に遊びにおいでよ」と、小万は言い捨てて障子をしめて、東雲の座敷へ急いで行ッてしまった。
 その日の夜になッても善吉は帰らなかッた。
 夜の十一時ごろに西宮が来た。吉里は小万の室へ行き、平田が今夜の八時三十分の汽車で出発《しゅッたつ》したことを聞いて、また西宮が持て余すほど泣いた。西宮が自分一人面白そうに遊んでもいられないと、止めるのを振り切ッて、一時ごろ帰ッた時まで傍にいて、愚痴の限りを尽した。
 善吉は次の日も流連《いつづけ》をした。その次の日も去《かえ》らず、四日目
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