いないんです。横浜の親類へ行ッて世話になッて、どんなに身を落しても、も一度美濃善の暖簾《のれん》を揚げたいと思ッてるんだが、親類と言ッたッて、世話してくれるものか、くれないものか、それもわからないのだから、横浜《はま》へ進んで行く気もしないんで……」と、善吉はしばらく考え、「どうなるんだか、自分ながらわからないんだから……」と、青い顔をして、ぶる[#「ぶる」に傍点]ッと戦慄《ふるえ》て、吉里に酒を注いでもらい、続けて三杯まで飲んだ。
吉里はじッと考えている。
「吉里さん、頼みがあるんですが」と、善吉は懐裡《ふところ》の紙入れを火鉢の縁に置き、「お前さんに笑われるかも知れないが、私しゃね、何だか去《かえ》るのが否《いや》になッたから、今日は夕刻《ゆうかた》まで遊ばせておいて下さいな。紙入れに五円ばかり入ッている。それが私しの今の身性《しんしょう》残らずなんだ。昨夜《ゆうべ》の勘定を済まして、今日一日遊ばれるかしら。遊ばれるだけにして、どうか置いて下さい。一文も残らないでもいい。今晩どッかへ泊るのに、三十銭か四十銭も残れば結構だが……。何、残らないでもいい。ねえ、吉里さん、そうしといて下さいな」と、善吉は顔を少し赧《あか》めながらしかも思い入ッた体《てい》である。
「よござんすよ」と、吉里は軽《かろ》く受けて、「遊んでいて下さいよ。勘定なんか心配しないで、今晩も遊んでいて下さいよ。これはよござんすよ」と、善吉の紙入れを押し戻した。
「それはいけない。それはいけない。どうか預かッておいて下さい」
吉里はじッと善吉を見ている。その眼は物を言うかのごとく見えた。善吉は紙入れに手を掛けながら、自分でもわからないような気がしている。
「善さん、私しに委《まか》せておおきなさい、悪いようにゃしませんよ。よござんすからね、そのお金はお前さんの小遣いにしておおきなさい。多寡が私しなんぞのことですから、お前さんの相談相手にはなれますまいが、出来るだけのことはきッとしますよ。よござんすか。気を落さないようにして下さいよ。またお前さんの小遣いぐらいは、どうにでもなりますからね、気を落さないように、よござんすか」
善吉は何で吉里がこんなことを言ッてくれるのかわからぬ。わからぬながら嬉しくてたまらぬ。嬉しい中に危ぶまれるような気がして、虚情《うそ》か実情《まこと》か虚実の界《さかい》に迷い
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