ことをするぜ。おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦《さす》る。
小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発《おこ》ると困るからね」
「はははは。でかばちもない虫だ」と、西宮。
「ほほほほ。可愛い虫さ」
「油虫じゃアないか」
「苦労の虫さ」と、小万は西宮をちょいと睨んで出て行ッた。
折から撃ッて来た拍子木は二時《おおびけ》である。本見世《ほんみせ》と補見世《すけみせ》の籠《かご》の鳥がおのおの棲《とや》に帰るので、一時に上草履の音が轟《とどろ》き始めた。
三
吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴた[#「さぴた」に傍点]の煙管《パイプ》を拭いながら、戦《ふる》える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。
燭台の蝋燭《ろうそく》は心が長く燃え出し、油煙が黒く上ッて、燈《ともしび》は暗し数行虞氏《すうこうぐし》の涙《なんだ》という風情だ。
吉里の涙に咽《むせ》ぶ声がやや途切れたところで、西宮はさぴた[#「さぴた」に傍点]を拭っていた手を止《とど》めて口を開いた。
「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷《くに》へ帰れる。私も心配した甲斐《かい》があるというものだ。実にありがたかッた」
吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。
「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも平田が帰郷《かえら》ないわけに行かないんでね、私も実に困っているんだ」
「家君《おとッ》さんがなぜ御損なんかなすッたんでしょうねえ」と、吉里はやはり涙を拭いている。
「なぜッて。手違いだからしかたがないのさ。家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚《ちいさ》い弟《おとと》はあるし、妹《いもと》はあるし、お前さんも知ッてる通り母君《おッかさん》が死去《ない》のだから、どうしても平田が帰郷《かえ》ッて、一家の仕法をつけなければならないんだ。平田も可哀そうなわけさ」
「平田さんがお帰郷《かえり》なさると、皆さんが楽におなりなさるんですか」
「そうは行くまい。大概なことじゃ、なかなか楽になるというわけには行かなかろう。それで、急にまた出京《でてく》るという目的《あて》もないから、お前さんにも無理な相談をしたようなわけなんだ。先日来《こないだから》のようにお前さん
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