、怒らせないくらいにゃしておやりよ」と、小万も吉里が気に触《さわ》らないほどにと言葉を添えた。
「また無理をお言いだよ」と、吉里は猪口を乾《ほ》して、「はい、兄さん。本統に善さんにゃ気の毒だとは思うけれど、顔を見るのもいやなんだもの。信切《しんせつ》な人ではあるし……。信切にされるほど厭になるんだもの。誰かのように、実情《じつ》がないんじゃアなし、義理を知らないんじゃアなし……」
 平田はぷい[#「ぷい」に傍点]と坐を起《た》ッた。
「お便所《ちょうず》」と、小万も起とうとする。「なアに」と、平田は急いで次の間へ行ッた。
「放擲《うッちゃ》ッておおきよ、小万さん。どこへでも自分の好きなとこへ行くがいいやね」
 次の間には平田が障子を開けて、「おやッ、草履がない」
「また誰か持ッてッたんだよ。困ることねえ。私のをはいておいでなさいよ」と、小万が声をかけるうちに、平田が重たそうに上草履を引き摺ッて行く音が聞えた。
「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬《ほお》を、西宮はちょいと突いて、「はははは。大分|愛想尽《あいそづか》しをおっしゃるね」
「言いますとも。ねえ、小万さん」
「へん、また後で泣こうと思ッて」
「誰が」
「よし。きっとだね」と、西宮は念を押す。
「ふふん」と、吉里は笑ッて、「もう虐《いじ》めるのはたくさん」
 店梯子《みせばしご》を駈《か》け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙《せわ》しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。
「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰《ひそ》めた。
 ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室《へや》の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。
「何だよ」
「ちょいとお顔を」
「あい。初会《しょかい》なら謝罪《ことわ》ッておくれ」
「お馴染《なじ》みですから」
「誰だ。誰が来たんだ」と、西宮は小万の顔を真面目《まじめ》に見つめた。
「おほほ――、妬《や》けるんだよ」と、吉里は笑い出した。
「ははははは。どうだい、僕の薬鑵《やかん》から蒸気《ゆげ》が発《た》ッてやアしないか」
「ああ、発ッてますよ。口惜《くや》しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻《つね》る。
「あいた。ひどい
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