間冷たい世の中に住んでゐたものである。この様な感覚の共鳴によつて情と景との結ばれる例は余人の余り試みず、独り晶子歌に多く見られる処である。
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遠つあふみ大河流るる国半ば菜の花咲きぬ富士をあなたに
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大河は天竜で作者が親しく汽車から見た遠州の大きな景色を詠出したものである。あの頃はまだ春は菜の花が一面に咲いてゐた、その黄一色に塗りつぶされた世界をあらはす為に大河流るるといひ国半ばといふ強い表現法を用ゐたのである。世の中にはをかしいこともあるもので、誰であつたか忘れたが、その昔この歌を取り上げて歌はかう詠むものだといつて直した男があつた。自己の愚と劣とを臆面もなくさらけ出して天才を批判したその勇気には実際感心させられた。日本人に斯ういふ勇気があつたればこそ満洲事変も起り大東亜戦争も起つたのであらう。雀が鳥の飛び方を知らないと凰を笑ふやうなものだ。
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我もまた家思ふ時川下へ河鹿の声の動き行くかな
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十二年の夏多摩の上流小河内に遊んだ時の作。河鹿が盛に啼いたものらしい、その河鹿の声が川下の方へ移つてゆく、丁度その時私もまた遥か川下の家のことを思ひ出してゐた。同じ時の河鹿の歌に 風の音水の響も暁の河鹿に帰して夏寒きかな といふこれもすばらしい一首がある。河鹿に帰するとは何といふ旨い言廻しだらう。万法帰一から脱体したものであらうが唯恐れ入る外はない。
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高き家《や》に君とのぼれば春の国河遠白し朝の鐘鳴る
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これも亦日本語の構成する音楽。森々たる春の朝の感覚に鐘の声さへ加はつて気の遠くなるやうなリトムの波打つてゐる歌である。
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荷を負ひて旅|商人《あきびと》の朝立ちしわが隣室も埋むる嵐気
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これも小河内の夏の朝の光景である。川から吹き上げる嵐気が室にあふれる。この室ばかりではない。昨夜旅商人の宿つて今朝早く立つていつた小さい隣の室にさへあふれる。旅商人を点出して場合を特殊化した所にこの歌の面目は存し、それが深刻な印象を読者の心に刻むのである。この時の歌にはまた 渓間なる人|山女魚《やまめ》汲み行く方に天目山の靡く道かな などいふのもある。
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すぐれて恋ひすぐれて人を疎まんともとより人の云ひしならねど
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私はこの「人」を他人の意として解釈する。恋をする位なら人にすぐれた恋をし、人を疎む場合には之も人にすぐれて疎まうと云つたのは、それは他人ではなくもとより私自身であつた。それなのに実際はどうか。私にはこんな意味に取れるが果して如何。他の解あらば教へを乞ひ度い。
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ことは皆病まざりし日に比べられ心の動く春の暮かな
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十二年の春四月の末つ方大磯でかりそめの病に伏した時の作の一つ。病まぬ日は昔を偲ぶをこととしたが、今病んでは事毎にまだ痛まなかつた昨日の事が思はれて心が動揺する。ましてそれは心の動き易い行く春のこととてなほさらである。この時の歌はさすがに少し味が違つて心細さもにじんでゐるが同時に親しみ懐しみも常より多く感ぜられる。二三を拾ふと いづくへか帰る日近き心地してこの世のものの懐しき頃 大磯の高麗桜皆散りはてし四月の末に来て籠るかな 小ゆるぎの磯平らかに波白く広がるをなほ我生きて見る もろともに四日ほどありし我が友の帰る夕の水薬の味 等があげられる。
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われを見れば焔の少女君見れば君も火なりと涙ながしぬ
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これは作者自身の場合を正抒し、それを涙流しぬで歌に仕上げたものであるが、これほどのものも当時作者の外誰にも出来なかつたことを私は思ひ出す。
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華やかに網代多賀をば行き通へ泣くとて雨よ時帰らんや
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多賀の佐野屋で網代湾に降る早春の雨を見ながら雨に話しかける歌。雨よ降るなら華やかに降つて網代と多賀の海上を勢ひよく往復するがよい、めそめそ泣いて降つたとて過ぎ去つたよい日は決して帰つてこないのだからと雨にいふ様に自分にいつてきかせるのである。
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紫と黄色と白と土橋を胡蝶並びて渡りこしかな
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たとへば日本舞踊で清姫のやうな美姫を三人並べて踊らせる舞台面があつたとする。それを蝶に象徴するとこの歌になる。象徴詩はもと実体がないのであるから、読む者が自由に好きなものを空想してはめこむが宜しい。
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瀬並浜宿の主人が率ゐつゝ至れる中にあらぬ君かな
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汽車が著いたので瀬並温泉の宿の主人が客を案内してどやどや帰つて来た。その中にも君は居ない。そんな気の迷ひはよさうと思ふがつい思はれるといふ位の感じであるが、目前の小景をその儘使う所にこの歌の値打ちが存するのであらう。
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たたかひは見じと目閉づる白塔に西日しぐれぬ人死ぬ夕
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日露戦争は主として軍人の戦ひであつて国民はあまりあづからなかつた。せいぜい提灯行列に加はつた位のものである。非戦論も大して咎められなかつた。当時の青年層は大体に於て我関せず焉で、明星などその尤なるものであつた。晶子さんは一歩進んで有名な「君死にたまふことなかれ」といふ詩を作つて反戦態度を明かにした位で、問題にはなつたが、賛成者も多かつた。この白塔の歌はいふ迄もなく、遼陽辺の戦ひを歌つたもので白塔はまた作者自身でもある。
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長岡の東山をば忘れめや雪の積むとも世は変るとも
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雪の長岡へ来て故人と共に遊んだ往年の秋を思ひ出し、雪景色とはなつたが、又世の中が変つて私は一人ぽつちになつて旅をしてゐるが、ここの東山をどうして忘れることが出来よう。誰にでも使へる様な平凡な言葉が平凡に組合されてゐるに過ぎないこの一首の歌が、反つて強く人の心に訴へる所のあるのは如何したことであらう。晶子歌の持つ不思議の一つである。この時の歌をも一つ。 我が旅の寂しきことも古へも我は云はねど踏む雪の泣く
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遠方《をちかた》に星の流れし道と見し川の水際《みぎは》に出でにけるかな
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恋人達の試みる夏の夕の郊外散策の歌である。とうとう川に出ましたね、さつき星の流れた辺ですよといふのであらうが、尤も之はむかしの話で今日の様にどこへ行つても人のごみごみしてゐる時代にはこんなのどかな歌は出来ないであらう。
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大海のほとりにあれば夜の寄らん趣ならず闇襲ひくる
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十二年の早春興津の水口屋に宿つてゐた時の作。家の裏は直ぐ大きな駿河湾で、大海のほとりにあるといふ感じのする宿である。日が暮れて夜が静かに忍びよるのではなく、この海辺に夜の来る感じは、いきなり暗闇《くらやみ》が襲ひかかるといふ方が当つてゐる。さうしてこの感じによつて逆に読者は自分も大海の辺に宿つてゐる気分になるのである。
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春の宵壬生狂言の役者かとはやせど人はもの云はぬかな
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春の夜の恋人同志の小葛藤である。「壬生狂言」は京の壬生寺の行事となつてゐる一種の黙劇で決して物を云はない。即ちおこつて口をきかなくなつた相手をからかふのである。この狂言は念仏踊の進化したものでをかしみたつぷりのものらしい。従つてはやせどといふのである。
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天地の春の初めを統べて立つ富士の高嶺と思ひけるかな
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久能の日本平で晴れ渡つた早春の富士山を見て真正面から堂々と詠出した作。私はそこへ登つたことはないが、ある正月のこれも晴れた日に清水税関長の菅沼宗四郎君と共に三保の松原に遊んでそこから富士を見たことがある。その大きなすばらしい光景を富士皇帝といふ字面であらはし駿河湾の大波小波がその前に臣礼を取る形の歌を作つたことがあるが、この歌ではそんなわざとらしい言葉も使はず、正しく叙しただけで私の言はうとしたと同じ心持がよくあらはれてゐる。私はこの歌によつても私と晶子さんとの距離のいかに大きいかを思つた。ことにその調子の高いこと類がない。又この歌に続く次の二首があつて遺憾なくその日の大観が再現されてゐる。曰く 類ひなき富士ぞ起れる清見潟駿河の海は紫にして 大いなる駿河の上を春の日が緩く行くこそめでたかりけれ
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春の海いま遠方《をちかた》の波かげに睦語りする鰐鮫思ふ
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終日のたりのたりかなでは曲がない。そこで遥か遠方に鰐鮫の夫婦を創造して彼等に睦語りをさせることにより、春の海の情調を具象させるのである。
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君に教しふ忽忘草《なわすれぐさ》の種蒔きに来よと云ひなば驚きてこん
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この君は親しい女友達である。少しあの方の足が遠のいてゐる由の御たよりに接し意外に思ひます。しかし何でもないことですよ。斯う書いてやつて御覧なさい。春が来ました、忽忘草の種を蒔きに来て下さいと。それだけで驚いて来ますよと書き送る形であらう。これも明治の歌を代表するものの一つで、立派なクラシツクである。
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薄曇り立花屋など声かけん人もあるべき富士の出でざま
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やはり鉄舟寺で作つた歌の一つ、その日は薄曇りであつたのに突然雲がきれて富士が顔を出した。それはどうしても羽左衛門といふ形である。大向うから立花屋といふ声がかからないではゐないといふわけである。私は若い時吉井勇君にそのよさを教へられて以来羽左がたまらなく好きになつて、よそながら死ぬまで傾倒したものだから、私にはこの歌の感じが特によく分る。ぱつたり雲を分けて出て来たのはどうあつても羽左でなければならない。外の役者ではだめである。これからの若い人達の為にこの間まで羽左といふ小さい天才役者のゐたことを書きつけて置いてこの歌の感じをよそへることにする。
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君は死にき旅にやりきと円寐しぬ後ろの人よものな云ひそね
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別に説明を要しないであらう。唯その言葉の音楽の滑るやうな快調がほんとうに味はへれば、それでこの歌の観賞は終るわけである。
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長閑なり衆生済度の誓ひなど持たぬ仏にならんとすらん
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同じく鉄舟寺での作。その時の住持は私も一度御目にかかつたが近頃珍しい老清僧で、知客、典座の役まで一人で引受けられる位気軽な、良寛ほども俗気のない方だつた。さういふ和尚さんを相手に何の屈托もなく春の一日を遊び暮す作者の心持、それがあらはれてこの歌になるのである。
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君まさぬ端居やあまり数多き星に夜寒を覚えけるかな
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夫の留守を一人縁に出て涼んでゐたが、ふと夜空を仰ぐと降るやうな一面の星だ。それを見てゐると急に寒くさへなる。作者に於ては冴えた星の光と寒さとの間に何か感覚のつながりがあるであらう。
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明星の山頼むごと訪ねきて積る木の葉の傍に寝る
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十二年の晩秋箱根強羅の星山荘にあつての作。明星の山は前の明星が岳である。あの山を頼みにして訪ねて来たのに、この落葉の積りやうは如何だ、まるで落葉の中に寝に来たやうだ。積る木の葉の傍に寝るとは何といふ旨さだ、唯恐入つてしまふ。
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相人よ愛欲せちに面痩せて美くしき子によきことを云へ
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面痩せて美しき子即ち痩せの見える細面《ほそおもて》の美人が、愛欲の念断ち難く痩せるほど悩んで、未来を占はせてゐるのだ、人相見さん、
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